倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」06:長谷川逸子と伊東豊雄の距離<2>表層の操作を全面化した「徳丸小児科」

Pocket

長谷川逸子と伊東豊雄の距離<1>から続く。

長谷川逸子の鮮やかな展開──「徳丸小児科」

 1978年から、翌年、翌々年と、長谷川逸子の転回は鮮やかである。

 1979年6月に愛媛県松山市に竣工した「徳丸小児科」は、5階建ての建物だ。1階にエントランスコートとこどもギャラリーがあり、2・3階がクリニックで、4・5階が住宅になっている。

長谷川逸子「徳丸小児科」 1979年(写真:大橋富夫)

 本作は、それまでの長谷川逸子が備えていた形式性を放棄したかのように見えるかもしれない。一つの建物の中にさまざまな形が存在し、それらは容易に統一した像を結ばないのだ。1階のエントランスコートとこどもギャラリーの境には、くねくねと連続したガラスブロックの壁が置かれ、光を透過させている。クリニックの外壁も、構造体とは別の論理で外側にふくらんでいる。その内部にある診察室や看護婦室の入り口部分には緩い円弧が用いられ、繰り返すそのリズムは、隣接する通路の空間に有機的な質をもたらす。

 カーブする壁は住宅部分でいっそう分散的に配置されている。それが階の上下やテラスの内外、空間の各用途に、部屋ごとの区切りでも完全なワンルームでもない、適切な距離感を与えている。最上階では屋根が2つに分節され、一方が緩い円弧を描くヴォールト天井、もう一方が山形をした切妻天井で仕上げられている。面がつくり出す空間の変化が、断面方向にも適用されていることが分かる。

長谷川逸子「徳丸小児科」 1979年(写真:大橋富夫)

 「ひとつの形式から複数の形式へ」という『建築文化』1979年10月号に発表された長谷川逸子の論考のタイトルが、変化の向きを示している。最初に「徳丸小児科は、これまでと同じように、建築の構成という実体的なものを、繰り返し問題にしながら設計を進めてきた」と書きながら「この建築は、いままでとは違う質とあり様をただよわせているかに見える」とし、これまでの「ひとつの形式をもつ建築に対し、この建築は各階で異なる形式が重層化され、全体として複数の形式をもつものとしてつくられている」と述べる(注3)。

 そうなった契機は「これまでつくった建築に比べて機能が複雑で規模も大きい」(注4)ことにあるが、それにしてもなぜ、ここまで「複数の形式を導入して、直接分散化と複合化に対応する空間性をつくろうとしていた」のか。この点こそ、当時の長谷川逸子が複数の論考において、異なる角度から自分に問いかけているものである。

「ひとつ」から「複数」へ 、表層の操作が全面化

 『新建築』の1979年10月号に掲載された論考「非装飾が装飾化する可能性を開始する」における説明は、連載の第2回で扱った「焼津の住宅2」(1977年)の延長上にある(注5)。「徳丸小児科」で選択したのは、円や三角のような「完結したかたち」ではなく、それを基本に据えて変形させた円弧のような「曖昧なかたち」だとした上で、「完結したかたち」について「現実が持つ具体性よりさらに具体的ともいえる主観の深みへのめり込ませ〈中略〉直接的に根源的なるものと結びついて人間が持つ多義的意味を封じ込めやすい。それゆえ探みにさかのぼろうとする欲求とか感情を閉じ込めている」と批判的に言及している。これは「焼津の住宅2」の作品解説で「シンボリックな意味の世界と密接に関わってきたものとして単純な幾何学的フォルムを避けてきた」とし、その理由を「新しい多義的意味を生産することができない」と述べていたのと同じ論理である。

 ただし、表層の操作が全面化しているところが違う。「徳丸小児科」で導入されたのは、複数の「形式」や「かたち」ではなく、複数の「表層」なのだと言える。確かに「ひとつ」から「複数」への変貌は「焼津の文房具店」(1978年)がその予告編であるかのように、本作で展開されている。ただし、それは各階ごとの「形式」を見出しづらいほどに劇的で、「手法」と呼ぶほうが適切だろう。操作されているのが、立体的な「かたち」ではなく、四周を囲われることのない面であることも、先ほど内部を中心に見た通りである。

 表層の複数化は、外観にさらに著しい。この建物は3階以下を鉄筋コンクリート造とし、4・5階を鉄骨造としたつくりとなっている。両者の構造の違いは、打ち放しコンクリートとアルミパネル張りの外装で表されている。ただし、4・5階についても床と妻壁はコンクリートでつくられている。したがって、それを反映した形で、細長い2つの家形が並ぶ東西側の立面においては、打ち放しコンクリートが頂部まで壁として伸びている。ここでは構造を外観に映し出すモダニズムの美学が打ち捨てられたわけではない。ただし、それを混構造のありように実直に対応させることによって、視点の位置によって変化する外観を獲得している。南北側から眺めれば、薄くて長いアルミパネルの表層は、上空に浮遊しているかのようだ。

 最も問題含みなのが、北側の道路に面した低層部のファサードだろう。通常は直線であるべき打ち放しコンクリートの目地が、華やかな曲線の組み合わせになっている。目地は、コンクリートの伸縮に伴って完成後に発生するひび割れをここで誘発させ、美しい見た目を保つために施される。曲線の目地もこうした機能と無縁ではないから、表面的な装飾であるとは言い切れない。形においても、すべての曲線はコンパスで描かれていて、自由奔放であるわけではない。これは美術家の高松次郎によるドローイングをもとにしたもので、アートと捉えた時には、形式性が際立って感じられるに違いない。

ものに即し、同時に連想を喚起する表層

 ただし、ここに来て、形が恣意的ではないかという感想を、ついに観察者が抱いたとしても不思議はない。平面に多用されている円弧が、さらに自由に応用されているのだから。作者はこのファサードを「子どものクリニックであるというイメージに照合させることで、打放しのテクスチュアを消していった」とも説明している(注6)。お花畑に見える、虹かもしれない・・そんなイメージの連想を、長谷川逸子は完全に否定してはいない。

 お家のような塔屋も、小児科医院であることと無縁でないだろう。これは長谷川逸子が初めて設計したエレベーター付きの建物だ。屋上に現れた機械室を「∧」の字を4つ重ねた壁で隠して、東西側の立面に並んだ2つの家形の一方が繰り返されたように見せている。山岳だろうか、山岳都市だろうか。抽象的だからこそ、連想の翼は広がる。

 このように「徳丸小児科」は、さまざまなイメージを映し出す表層をまとっている。そして、そのいずれもが構造、誘導目地、塔屋といった技術的な必要性と無関係ではない。複数の表層は、ものに即し、同時に連想を喚起している。これを「即物性」と「連想性」と呼ぶとすると、どちらも設計者の意志で統率しきれないものだ。

閉じていく建築家像を拒否

 さらに「通俗性」という言葉を導入することで、その意味を深めたい。この言葉は、前述した長谷川逸子の論考「ひとつの形式から複数の形式へ」の中に登場する。「徳丸小児科」について「このイメージと概念を含む建築の新たな論理は、多義性を開放しているもので、いまある建築とは異なるレベルにある通俗性を、空間にただよわせたものになるであろう」と述べた部分である(注7)。

 「通俗性」という、通常であれば「軽蔑をこめて」用いられる単語をあえて使っているのは、これが以前から長谷川逸子が批判的に言及していた「シンボリックな意味の世界」や「根源的なるもの」と正反対の方向性を顕著に表すからだろう。建築が深遠なものを暗示させ、その存在感を高めながら、閉じていくことに奉仕する司祭としての建築家像を拒否した時に、「完結したかたち」ではなく「曖昧なかたち」は選択される。「軽蔑をこめて」というのは、1975年に美術評論家の宮川淳が「表面的」という概念に対して行った形容だった。

 長谷川逸子は「焼津の文房具店」の作品解説で建築の「外側の面」が都市との接点であると述べた後、本作の表層において「曖昧なかたち」を操作した。それが特徴とする即物性と連想性は、確かに「俗」に「通」じる。即物性は物の領域にあり、連想性は心の領域にあって一見、正反対のようだが、どちらも個人の意志であったり、建築論の形式では囲いきれない性質だからである。「建築」という聖なる虚構ではなく、現実的な物体としての生産や、単なる物体としての受容に関わる。それらは社会の深層に通じると言えるが、扱いを間違えれば、独特の回路で社会に貢献する建築の領分を消滅させかねない危険をはらんでいる。

生きた社会に参与する建築家の勇気の表明

 だからこそ、表層への強い意識が重要になる。長谷川逸子は論考「非装飾が装飾化する可能性を開始する」を次のように締めくくっている(注8)。

 「建築の外面は複雑な内部を隠蔽しながら、対極にある拡散した都市に対応するひとつの虚構としての機能を働かせるものだといえるが、それは鏡のような両面性の機能で、都市とか社会という幻影を映し出す面でありながら、その影は現実の一部分の表われ以外のなにものでもないような働きをすると考えている。」

 「虚構」や「幻影」であるのは、建築なのか社会なのか。事態は、連載第4回に扱った伊東豊雄の「PMTビル」(1978年)と、そのIAUSの展覧会への出展作を想起させる。論考で言う「鏡のような両面性」に、伊東豊雄は「覗き込んでいるのは貴方? それとも私?」というタイトルを付けて「『ヨーロッパというフレーム越しに覗き込んだ日本の中のヨーロッパ』ともいうべき二重に反転された建築的状況」を示した。

 長谷川逸子は、表層が有する同様の連想性を用いた「都市への埋め込み作業」に踏み出した。有りながら存在していない表層は、そこに相容れない複数の世界があることだけを映し出す。そこからしか真のコミュニケーションが始まらないとしたら、必要なのはその周到な操作である。表層は内部に従うものでも、外部から決定されるものでもない。建築にも非建築にも支配されない、二項対立を越えたものなのだ。

 当時、長谷川逸子の作風の変化は、もしかしたら背教的に思われたかもしれない。それは生きた社会に参与する建築家の勇気の表明であり、自らの設計をそのための「作業」と称していることには、表側にも裏側にも転落しない適切さを保持するといった設計における職人的な自負が読み取れる。「表層」はその主対象だ。決して付加物ではなかったのである。

パンチングメタルの即物性──「桑原の住宅」

 次いで1980年10月に竣工した「桑原の住宅」は、長谷川逸子の表層期の一つの帰結となる。先に「通俗性」と述べた性質のうちの「即物性」が、本作では有名だ。外部の表層を特徴づけるパンチングメタルが、それである。

長谷川逸子「桑原の住宅」1980年(写真:大橋富夫)

 住宅は愛媛県松山市の郊外住宅地に建つ。切妻屋根の平屋の一部に2階が載り、地下に駐車場がある。細かな穴が無数に開いたアルミニウムのパネルが、南側の広い庭に面して立てられている。それを軒先から突き出した細い鉄骨の架構が軽やかに支持している。パンチングメタルの面と外壁との間には、コートと呼ばれる中間的なスペースが設けられ、床は内部と同じ大理石張り仕上げになっている。

 室内から見ると、下面に続く光沢のある表層が、空間がパンチングメタルの面まで連続している感覚を高める。外から眺めた時、外光を反射する面は、2階建てになった部分に施されたアルミニウムパネルの外装とつながって見える。特に斜めから捉えた際のパンチングメタルの存在感は、プレキャストコンクリートのように工業的に仕立てられたコンクリートの妻面などと同じくらい強く、シャープな建築の外形を規定している。

長谷川逸子「桑原の住宅」1980年(写真:大橋富夫)

 それでいて、パンチングメタルはやわらかさを備えている。外部からの視線を優しく受け止めながら、光や風を透過させる。そんな実用的な側面もさることながら、表層の効果が独特なのである。細かな穴の数々が光を受けてドット柄の影をつくっている。支持材が斜めに走る影は三角形が連続した図像となり、南からの光線で浮き立った白黒のコントラストは、パンチングメタルを直に見たとき以上に「焼津の住宅2」(1977年)からの継承性を想起させるに違いない。表層のイメージは太陽によって移ろい、大理石などで構成される複数の表層と関わって、連想の幅を広げる。

内側にも外側にも属さず、存在の厚みをはぐらかす

 屋外から目にした際も、パンチングメタルの印象は揺らぐ。視点の位置や光線の加減によって、内外を画する境界面であるようにも、外部のささいなオブジェのようにも受け取れて、決定しがたいのだ。パンチングメタルの面は内側にも外側にも属さず、視覚的効果によって、存在の厚みをはぐらかしている。これはここまで扱ってきた「表層」の性格そのものである。

 長谷川逸子のパンチングメタルへの着目は「建材屋の倉庫に行ったときに、バスの後ろに貼ってある花模様のものを見つけた」ことがきっかけだった。「当時は丸穴のパンチングメタルは1種類しかなかったので、さまざまな開口率で穴の配列の角度を45度と60度でたくさん試作し、そのなかからひとつを選んだ」(注9)という。1980年代にさまざまなバリエーションを持ったパンチングメタルが市販され、建築に適用されて流行する。「桑原の住宅」はその始まりになるのだ。

 試作においては「30枚ぐらい穴を開けてもらって〈中略〉それを夕方に見ると、45度と60度の影が全然違う〈中略〉60度は楕円になっていくのに、45度は単に丸がだんだん小さくなるだけなんですよ」と語る発見もあった(注10)。表層の効果への鋭敏な感覚が、広がりを持った素材の開発を支えていたことが分かる。

 こうしたパンチングメタルの使い方は「緑ヶ丘の家」(1975年)の階段における既成のステンレス溶接金網の応用を起源とし、「焼津の文房具店」(1978年)でより繊細なクリンプ金網を用いて、透ける面をつくったことの延長上にある。この「桑原の住宅」でも1階の玄関・広間・食堂の間を、ステンレスメッシュのカーテンで仕切っている。それは「徳丸小児科」(1979年)においてカーブする壁が形づくっていた、部屋ごとの区切りとワンルームとの中間の状態を彷彿とさせる。

単に即物的であったパンチングメタルに意味を持たせる

 「桑原の住宅」の施主は、鉄骨・屋根材・外壁材・サッシュなどの建築材料を主に扱う会社の経営者だった。接客の多い施主のために1階の広間に会社のレセプションルーム的な機能を持たせることや、パンチングメタルを使用することは、あまり要望の出てこなかった施主だったからこそ、長谷川逸子のほうから提案した。それが了解された(注11)。規定が与えられたものとして建築を新しい方向に踏み出させていく、作者のデビュー作以来の指向がパンチングメタルを選ばせ、建築空間に両義的な効果をもたらしたのである。

 パンチングメタルのさまざまな効果は、素材の性格と切り離すことができない。ものに即して、穴の大きさや方向性を変化させた細部が効果を生み出している。とはいえ、どのようにも成形できるわけではなく、技術的な必要性から成立したパンチングメタルは、技術的な制約の中にある。

 それでも、建築家が関与することで、それまで単に即物的であったものが、連想性を帯びたことは事実だ。意味を持つようになったのである。ただし、それはいわく言い難い深みに誘う象徴的な意味でもなければ、それとは反対に軽快だがやはり単一である記号的な意味でもない。両義的な表層の効果から生み出される、多義的な意味にほかならない。

 果たしてそんな意味を、建築家が掌握しきることができるのだろうか? 不可能だろう。連想は日常に属したものであり、その源は、光降り注ぐ世界に投げ出された物体が、ある瞬間に他のものと関係してどのように目に映り、実用と関わり合っていかに心に映るかということなのだから。

表層が社会の深層に通じることを証明

 1977年以降の長谷川逸子が、旧来の建築家らしさという制約から抜け出して、新しい領域を開いたことは誰の目にも明らかだろう。ただし、その肝心な点がどこであるかということに関する従来の説明が十分とは思えない。

 少なくともこの時期については、「焼津の文房具店」(1978年)の作品解説で登場した「ガランドウ」(注12)という空間概念をその後に一貫したものとして捉えたり、敷地や施主といった他者の巻き込みを「藤沢市湘南台文化センター」(1989年)の設計プロセスにおいて先駆けたワークショップ形式につなげたり、確かに作者が先駆的に備えていた構法的・DIY的な側面を強調したりといった1995年以降の状況に即した言説よりも、実際に当時において重視されていた表層という概念を深めるほうが素直であり、実りが多い。パンチングメタルの使用に至る過程は、この時期における建築家の姿勢の変更を代表している。

 それにしても、1950〜60年代のようなまだ既製品の種類が乏しかった時代ならいざしらず、1980年代において建築家が生み出した建材がカタログ化され、世間の流行に寄与したのは驚くべき事実だ。パンチングメタルが即物性と連想性の二重の意味で、通俗的であったことを思い出そう。長谷川逸子は、表層が社会の深層に通じることを証明した人物なのである。

長谷川逸子と伊東豊雄の距離<3>へ続く。

注3:長谷川逸子「ひとつの形式から複数の形式へ」(『建築文化』1979年10月号、彰国社)120頁
注4:長谷川逸子「複合化した構成」(『新建築』1979年10月号、新建築社)184頁
注5:長谷川逸子「非装飾が装飾化する可能性を開始する」(『新建築』1979年10月号、新建築社)194頁
注6:前掲注3、121頁
注7:前掲注3、121頁
注8:前掲注5、194頁
注9:長谷川逸子・建築計画工房編著『ディテール7月号別冊 長谷川逸子/ガランドウと原っぱのディテール』(彰国社、2003)51頁
注10:長谷川逸子×古谷誠章「続けてきたものから新しい考えをつくる。」(『INAX REPORT 182』2010年4月、INAX)28頁
注11:長谷川逸子「建築の現場」(『新建築』1979年10月号、新建築社)178頁
注12:前掲注2、168頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)