倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」07:長谷川逸子と伊東豊雄の距離<3>多木浩二の評論から浮かび上がる両者の接近

Pocket

 前々回、長谷川逸子と伊東豊雄とが最接近した日時を1978年6月と特定した。この月に雑誌発表された伊東豊雄の「PMTビル」(1978年)と長谷川逸子の「焼津の文房具店」(1978年)は、ともに「表層」を駆使して都市的な建築であろうとしていた。

伊東豊雄「PMTビル名古屋」1978年(写真:山田脩二)
長谷川逸子 「焼津の文房具店」 1978年(写真:大橋富夫)

 どちらも外部に呈しているのは、その奥にある機能に直結はせず、表面性が強調され、意味を喚起するものの、一つの象徴性に収斂しないような面だった。その効果は、伊東豊雄の「上和田の家」(1976年)や長谷川逸子の「柿生の住宅」(1977年)が示すように、もともと内側の表面から見出されていた。

 1978年の2つの作品でも、表層は内部にも存在している。そして、その存在感は、それが何でできているかということと切り離せない。すなわち「PMTビル」の外観を規定しているアルミパネルも「焼津の文房具店」のアルミ樹脂複合版も、こうでなければならなかったものなのだ。

 このように「形」や「形式」や「記号」といった言葉で置き換えることはできない要素を、長谷川逸子と伊東豊雄は発見していた。この時代の概念であった「表層」の深い意義にまで、感覚を通じて到達したのである。ありようは明確だが、既存の一言では言い表せないものだから、当人もその発見を言語化するまでにタイムラグがあった様子にも、すでに触れてきた。以後、その可能性がそれぞれに意識化され、作風が展開される中で、二人の距離は増していく。

長谷川逸子にもあてはまる多木浩二の「表層化としての建築」

 今回、この1978年6月という瞬間を、同じ月に発表された多木浩二の文章が写し取っていることに着目したい。伊東豊雄の「PMTビル」に対して書かれた評論だが、むしろ以後の長谷川逸子に妥当するのも興味深い。

 こう書くと、多木浩二がこの文章の冒頭で「伊東の建築を検討することは決して現代建築のパースペクティヴを全体として論じることではない」という前提をおいていることを無視しているようだが、「表層化としての建築」というタイトルの名付けからしても、同論は特定の作家論に留まらず、より普遍的な読みを許容しているのだと思う。

 事実、この評論における多木浩二の眼力は、この時代に表層という現象があり、建築がそれを積極的に活用することで実社会に迫ろうとした事実を捉えている。まずは内容を分析して、伊東豊雄の軌跡を測る起点としたい。

 「表層化としての建築」は3章で構成されている。最初の章である「1.ボール紙細工のような建築」で、多木浩二は「PMTビル」を「完全に表面的」と形容している。「あらわれているものあるいはかたちの奥になにがあるかを覗いてみようとしたところでまず無駄だ」と言う。そこには建築が長い歴史のあいだに蓄えてきた「厚みのある世界」や「人間的な意味深さ」や「中味」が見いだせない。「われわれはそのような建築を実在感をもってうけとめはしないし、かといって窮極の意味に収斂する〈象徴〉としてもうけとらない」と述べるのだ。

長谷川逸子も「中味」が見いだせない作風を発展

 このような形容は、この連載で光を当ててきた長谷川逸子の当時(1978年)までの奮闘を彷彿とさせる。すなわち、デビュー作である「焼津の住宅1」(1972年)において、早くも長谷川逸子は物の「厚みを奪い、意味を停止させる」意志を作品解説で示していた。「緑ヶ丘の住宅」(1975年)では、建築が実在感をもって受け止められないように、打放しコンクリートの内壁にサンダー磨きをかけた。それが「焼津の住宅2」(1977年)において、一様なシルバーペイントで外壁を仕上げる手法に展開し、全体の形は作者の言う「シンボリックな意味」として受け取られないよう、幾何学の組み合わせとなった。多木浩二が言うところの「厚みのある世界」や「人間的な意味深さ」や「中味」が見いだせない作風を発展させていったのである。

 以上の歩みは、伊東豊雄にもある程度あてはまる。つまり、「中野本町の家」(1976年)では内壁を白く一面に塗り、「上和田の家」(1976年)においてモルフェームと名づけた幾何学の断片を平面に全面展開した後、「ホテルD」(1977年)でそれを断面や外観にも出現させた。ここにも建築を「窮極の意味に収斂する〈象徴〉」にしたくないという強い意志がうかがえる。

PMTビルは「表面でしかないかたちの統辞法」

 これに続く多木浩二の描写も、1978年の2作品を同時に取り扱っているかのようだ。もちろん、直接の分析対象は「PMTビル」である。ここにおける「ファサードの役割は大きいが、ファサード建築であることだけをさして建築が表層的」と言っているわけではないとした上で、「ファサードはともかく、建築は全体像としては把握しにくい」、「ある意味では、ばらばらに自立した部分的関係を束ねてよせあつめたといえなくもない」という見解を示す。そして、これが「伝統的な意味での建築という、形態のパラダイム(パラディグム)を逸脱してしまうように見える」、「伊東の場合には、この多元性を極端に観念化して充実したかたちというパラダイムを、完全に表面的な、表面でしかないかたちの統辞法にまですすめてしまった」と形容するのだ。ぜひ、これを連載の前回における「焼津の文房具店」の文章や写真と併せて読んでほしい。もし、多木浩二が長谷川逸子の作品を形式から分析していたとしたら、このように言語化されたのではないだろうか。 

 次の「2.表面化にともなう両義性」の章では、冒頭で「このボール紙細工のような建築」と、それまでの描写を前章のタイトルによって集約し、その意義を考察していく。今、表層に留まることが意外にも社会につながるといった指摘は、前章にも増して、長谷川逸子のことを述べているかのようだ。

 導入部からして「それを実在と認識するには空虚でありすぎる〈中略〉非在というにはなまなましい剌戟がある〈中略〉このふたつの対立するものの中間地帯はわれわれの注意をひきつける」と魅力的だ。

表面を「存在論の文脈から抜けおちる」存在と表現した宮川淳

 こうした建築の意義を考察するにあたって参照されるのが、美術批評家の宮川淳による一節である。連載の第2回で触れたように、1972年に書かれ、1975年の書籍化によって有名になり、1977年1月に発表された伊東豊雄の論考「光の表徴」でも引用されていた。

 この頃から多木浩二と伊東豊雄は親交を持っていたから、一方が他方に教えたのかもしれない。多木浩二はそれを引用する際に「表面の記号学について簡潔で見事な表現をあたえている」と書いている。確かにこの短文は、かけがえがない。それは200字に満たない中で「表面」が持つ両義性をいくつも表現しているからだ。すなわち、表面は、宮川淳の言葉に従えば「存在論の文脈から抜けおちる」ような存在である。そして「その背後もまた表面だから」、表側と裏側を生みながら、どちらがどちらであるかを確定することはできない。さらに「軽蔑をこめて表面的と形容するだろう」という言葉づかいを通して、宮川淳が「表面」がまとってしまう俗っぽさも指摘していることにも注目したい。

 宮川淳の短文に多木浩二が触発されたのは、以上のような表面が有する複数の「両義性」をめぐってであろう。したがって、本章には「表面化にともなう両義性」というタイトルが付けられ、伊東豊雄の建築に「対立するものの中間地帯」という言葉を与えた後、表面の考察が開始された。前回までの連載で長谷川逸子の建築に発見した「二項対立を越えたもの」にも通じる。では、宮川淳の言葉を展開して、多木浩二はどのような両義性を伊東豊雄の中に見出したのだろうか。

多木浩二が見いだした「俗と非俗の両義性」

 一つは、意味と無意味の両義性である。多木浩二は「完全に表面的」な「伊東の建築はそれ自体は記号作用(象徴性)をもたない空虚なもの」であり「眼に見えない意味に結びついて、深い地層を形成する」ようなものではないが、かえってそのことが「深さを求める象徴の記号作用にもとづいて形成されている理論、あるいはそのような記号に秩序づけられていると思いこまれた社会、政治、文化などあらゆる秩序に対して挑発的なニュアンスをもつ」といった機能を持ち、意味を有するのだと指摘する。こうした読解は『新建築』の1976年11月号から1977年8月号まで5回にわたり連載された「建築のレトリック」の内容、特にその初回における「表面」の考察と伊東豊雄の「中野本町の家」(1976年)に対する批評の延長上に位置する(注1)。

 ただし、ここからが新しい。二つ目に見出されているのは、俗と非俗の両義性である。これに対する考察は「表面化は、また、一方で思考のパラダイムの根本からおびやかす文化から生じると同時に、きわめて通俗的なものからも生じてくる」という見解から始まる。続いて伊東豊雄の作品が「もっぱら作品から作品をうむというかれの知的な身振りにもかかわらず、きわめて俗な部分をもっている」と評される。それは「大衆の欲望を構成し、また欲望から生じてくる事物の表現と似てくる」と言うのだ。

 アール・デコは「真正の近代主義者たちの怒りにもかかわらず」繁殖して「大衆にひろがりと影響力をもちえた」。「消費される記号のもっとも典型的なもの」であるピンナップと「同じ機能を持つイメージであるから」篠山紀信の『家』(潮出版社、1975年)は「挑発的だった」。多木浩二はこのような例を示して、表面が、先の一つ目の両義性と関わりながら、ハイカルチャーの文脈で掌握しきれるものでないことを明確にする。「表面化はそれをどんなにソフィスティケートしようと、そのひとつの起源は大衆による記号操作にある」のだと。

伊東豊雄自身にも内在する両義性

 三つ目は、伊東豊雄の中にある両義性である。それが日本の、建築家を含む知識人が持つ両義性にも通じることが示唆されている。これは厳密には論証不可能な問いで、実際、以後の内容に直接はつながらない論理の袋小路であるが、表層が深層を突き刺すスリリングな箇所となっている。

 多木浩二に言わせれば、こういうことだ。伊東豊雄のものの見方の中には「西洋と日本という差異など存在していない。かれはル・コルビュジエやロースにより親近性を感じている」。これは「日本の近代的な自我の伝統的な意識のあらわれである」。ところで、先の一つ目の両義性を備えた表面は「〈象徴〉とよんだ深さへの欲求」を退けていた。ただし、深さへの欲求の「もうひとつの面は、主体を〈自我〉(つまり意識)をこえて、全体として回復すること」にある。よって、伊東豊雄の行為は「論理的には主体そのものの破壊を企てることにほかならない」。以上のように多木浩二は、伊東豊雄の中に矛盾を見出し、方法的な不徹底さをほのめかす。そして、次のように記す。

 「だがこうした〈方法〉とよばれるものがすべて意識的な産物なのだろうか。伊東の場合も、表面化していく過程が、西欧的な知的作業の最近の結果と似ているとしても、もともと主体と客体の対立を明確にせず、その中間をとりだし、主体や客体をそのなかに分散させてきた日本の知のひそかな浸食ではないかどうか、俄かには判断しがたい。」

 ここで見出されているのは、自我と非自我、意識と無意識、西欧と日本との両義性である。この指摘は、建築の形としては表層的ではなくなった時期の伊東豊雄に対しても、あてはまるのではないだろうか。そうだとしたら、表層期に獲得された両義性、あるいは矛盾の実現が作者にとって、いかに決定的だったかを示している。そして、当時の言説が備えていた射程の長さに驚いてしまう。

篠原一男にはない伊東のキッチュさ

 最後の「3.キッチュの経験と建築における表面化」の章で深められているのは、前章の二つ目の両義性にあたる「俗」に対する考察である。好対照に置かれるのが篠原一男だ。「かれの建築はあくまで芸術であり、確実に存在論にもとづいている。これに対して伊東の場合は、もともと、キッチュ的なものを視野にいれてきた。〈中野〉の家で照明を用いて壁に動く人影を投じる仕掛をつくったのは、キッチュにほかならない」とされる。

 「キッチュ」は、安っぽくて、いんちき、陳腐で、通俗的なものを意味する言葉だ。通常、建築にはあまり使われたくない単語だろう。

 もちろん多木浩二は、伊東豊雄が社会的な状況にからめとられるだけでない建築のあり方を当初から意識的に追い求めてきたこと、理論的な建築家として認識されていることを重々承知している。したがって、「建築をかたちのたわむれに化するのは、意味作用に構成された文化からぬけでようとするかれの企てである」とはっきり書いている。ただし、続けて「ただこの営みが、すでにふれたような両義性を解消してしまえない以上、全面的な自らの否定や排除でないことは明らかである」とし、「そのような営みをかりにアイロニーとよんでもよい」と記す。「アイロニーとは完全には正当化できないものから有効な側面をひろいあげる意識である」と、アイロニーの意味も明確にされている。

 ここで美術批評家の宮川淳が「表面」を初めて対象化した時、そこに「軽蔑をこめて」というアイロニーが含まれていたことを思い出すだろう。これを契機として執筆された「表層化としての建築」にも、両義的な形容が矢継ぎ早に登場する。

 すなわち「伊東の場合には、たしかに、建築家の作品ではあるが、ぎりぎり問いつめた芸術の方法として見るより、充分にいかがわしさも含んだ文化の現在におけるひとつの現象として論じたほうがひとまず有効な視野がえられるように思える」とし、「かれの建築の方法が永続する性質をもっていないことも注目してよかろう。 篠原一男の建築のすごみを理解するのとは全く無縁なところで、それはわれわれを挑発し、自らを正当化できないまま、逆説的にわれわれにとってはもっとも現実的な問題を見出すきっかけになりうるのである。」と稿を閉じるのだ。

表層こそが建築と社会の新しい接点になりうるというエール

 このように「表層化としての建築」は、当時の建築に現れた「表層」の意味を捉えている。重要なのは、それが既存の価値観では褒め言葉にならない性格を持つ点である。

 人の建築に対して「ぎりぎり問いつめた芸術の方法」でなく、「いかがわしさ」も含み、「永続する性質をもっていない」と形容するとは、従来であれば喧嘩を売っているのかということになるが、多木浩二は伊東豊雄の建築にこのようにしなければ表せない新たな質を見出したのだ。

 「表層化としての建築」とは、「完全には正当化できないものから有効な側面をひろいあげる意識」の産物だから、そのような意識を持った形容だけがそれを表現できる。「表層化としての建築」の最後で述べられているのは、自らを完全には正当化できないものを通してしか、今、「現実的な問題」は見いだせないという現状認識にほかならない。言い換えば、これはさまざまな両義性から逃れられず、従来の建築観に留まる人は「軽蔑を込めて」キッチュと形容するだろう表層こそが、建築と社会の新しい接点になりうるといったエールである。

長谷川逸子の「通俗性」という言葉も両義的なアイロニー

 その上で感じるのは、これらの分析は長谷川逸子にもふさわしかったのではないかということだ。

 伊東豊雄における「キッチュ」は抽象化されているが、「焼津の文房具店」(1978年)の屋根、文房具店のイメージはより直接的にそれかもしれない。カーテンで仕切った内部も「永続する性質をもっていない」と言える。

 「徳丸小児科」(1979年)の解説文で、長谷川逸子も「通俗性」という言葉を使っている。それは連載の前回で触れたように、否定的な意味だけを有してはいない。それと同時に、肯定的な意味だけでもない。ここでも表層は両義的なアイロニーをまとっている。「桑原の住宅」(1980年)は、現実との新しい接点を表層によって形成したものだ。
とはいえ、多木浩二の論は、伊東豊雄に対して書かれたものである。事実、「PMTビル」(1978年)以降、「笠間の家」(1981年)に至る伊東豊雄の軌跡は、表層が持つ可能性を発揮している。続いて、その美しさに巻き込まれてみたい。

注1:多木浩二「建築のレトリック1 「形式」の概念—建築と意味の問題」(『新建築』1976年11月号、新建築社)131〜138頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)