倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」11:黒川紀章の利休ねずみと磯崎新のモンローカーブに見る「表層」

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 前回、丹下健三槇文彦について見ていったように、1977〜81年には皆、「表層」に憑かれたのだった。それぞれの建築家の中心思想や世代論を越えたその拡がりから、引き続き、この時代の建築を捉えたい。

黒川紀章の「利休ねずみ」論

 同じメタボリズム・グループの一員であっても、菊竹清訓や大高正人とは違い、黒川紀章─や前回とりあげた槇文彦─は、時代に鋭敏に反応する建築家だったから、この時期、急速に表層を論じるようになった。

 「利休ねずみ」がそれである。この言葉は「石川厚生年金会館」(1977年)が『新建築』1977年9月号に発表された際の論考で初めて中心的なテーマになった(注1)。江戸時代後期に、緑がった茶色が流行し、茶人の千利休を連想させることから「利休色(いろ)」と呼ばれた。その灰色に近いものが「利休鼠」と称されたわけだが、黒川紀章は彼らしく、この一点を、大衆の誰もが日本文化の代表者と認識している「利休」と「ねずみ色」(グレー)とが直結しているのだという分かりやすい主張に拡張し、以後ぐいぐいと論を進める。

黒川紀章「石川厚生年金会館」1977年(写真:倉方俊輔)
山口昌男『文化と両義性』2000年(初版は1975年)

 すなわち、「利休は、利休ねずみという色彩感覚によって、時空間を一時的に凍結して二次元の世界、平面の世界をつくり出そうとしたのではないか。」と述べ、それは「西洋の都市空間や建築空間はすぐれて立体的である」のに対して「日本の都市空間が二次元的空間」であることに呼応していると言う。そして「利休ねずみの手法とはこのように三次元的で、立体的で、彫刻的で、実体的で、単一意味的な空間を、平面的で、絵画的で、非感覚的で、多義的、あるいは両義的で曖昧な空間に変換するための手法なのである。」とし、それをジャールズ・ジェンクス『現代建築講義』(黒川紀章訳、1976年)や山口昌男『文化と両義性』(1975年)で述べられている「両義性や曖昧性」に結びつける。

『a+u』1978年10月臨時増刊「ポスト・モダニズムの建築言語」

 この年、ジャールズ・ジェンクスが著した論考は、翌年に『ポスト・モダニズムの建築言語』として刊行される。文化人類学者の山口昌男は、1980年代の「ニューアカデミズム」と呼ばれた浅田彰・中沢新一らの現代思想に先鞭をつけた人物である。大流行の前夜に2つの「イズム」を捉え、日本文化を介して自作に結びつけているのだから、黒川紀章の能力は明らかだ。時流への同期は、表層を通して成し遂げられている。

実際に行われているのは、黒と白の間の色調

 では、実際に建築で何をやっているのか。論考の中で、本来は繊細である利休鼠をシンプルにグレーと言い換えたように、行われているのは、黒と白の間の色調で内外装をまとめるということに過ぎない。

 石川厚生年金会館は外壁をダークグレーに統一し、「国立民族学博物館」(1977年)や「熊本市立熊本博物館」(1978年)にも同様の磁器タイルを用いた。「福岡県庁舎」(1981年)の外装もグレーのタイルである。

黒川紀章「国立民族学博物館」1977年(写真:倉方俊輔)

 こうしたタイルは「埼玉県立近代美術館」(1982年)や「国立文楽劇場」(1983年)にも使われている。ただし、この頃になると、日本らしさは「平面の世界」だとする言説は後方に退き、空間性や記号性から論じられるようになる。始期については「福岡銀行本店」(1975年)を設計者は「利休ねずみ」の始まりとするが、アンゴラ産花崗岩の外装は印象が異なり、竣工時は空間の性質にほぼ終始した解説を行っていた。やはり1977〜81年が、ひとまとまりの時期なのである。

黒川紀章が最も「平面」に接近した時期

 先ほど日本の都市空間を「二次元的空間」と、やや奇妙な言い方で示していたように、黒川紀章はいわば「空間派」だ。だから、1960年代から提唱していたのは「道空間」や「中間領域」だった。彼のメタボリズムにしても直接的に、概念と空間と形態が一つになっていた。

 そんな黒川紀章が最も「平面」に接近したのがこの時期なのである。その後になって初めて「六本木プリンスホテル」(1984年)のように記号的なイメージを表面に乗せる手法や、埼玉県立近代美術館などに見られる面の恣意的なカーブが現れる。表層期は、黒川紀章が工業主義を完全に脱却する上で、欠かせないものだった。

 ただし、この段階で建築の表面に存在していたのは、直接的な記号ではなく、イメージを喚起させる何物かであり、それは表面がどんな素材でできているかということと切り離せなかった。黒川紀章はそれを日本回帰とポストモダニズムと現代思想に結びつけた。表層期とは、その3つともが後のようには全面化していない時代だ。そんな状況を受けて、当時の黒川紀章の作品には固有の味わいがある。

磯崎新と黒川紀章を分けるのは、アイロニーの有無

 磯崎新も「空間派」と言える。「群馬県立近代美術館」(1974年)や「北九州市立美術館」(1974年)の表面は正方形に覆われている。しかし、それは内部と別個の存在ではなく、立方体を空間の単位とすることの表現である。

磯崎新「群馬県立近代美術館」1974年(写真:倉方俊輔)

 もちろん、磯崎新はこうしたやり方を─前回も用いたアイロニーの定義を引用して言えば─「完全には正当化」しているわけでなく、そう「できないものから有効な側面をひろいあげる意識」を「手法(マニエラ)」と名づけた。アイロニーの有無は、磯崎新と黒川紀章を決定的に分けるものである。

 とはいえ、磯崎新においても、この時期に以前の状態から一つ展開し、次を生み出すものをつくっている事実は認めざるを得ない。

立方体フレームを喚起させない「神岡町役場」

 「神岡町役場」(現・神岡振興事務所、1978年)について磯崎新は、自分のこれまでの仕事と比較した時、「明らかに異なった形態があえて接合させられている」ことが明瞭だと雑誌発表時に書いている(注2)。確かに、半円筒形の議場があり、直方体のボリュームがあり、それらと軸線を少しずらした立方体がある。これらの異なる形態をつなぎとめているのは、表面なのだ。

磯崎新「神岡町役場」(現・神岡振興事務所)1978年(写真:宮沢洋)

 アルミニウムパネルの正方形は、群馬県立近代美術館や北九州市立美術館から引き続いて、直方体の形態に適用されている。しかし、ここではそれだけでなく、円筒形の表面にも使われている。これはもはや立方体フレームの存在を喚起するものではない。角のない完璧さを強調するのみである。

 表皮が自律していることを一層感じるのは、軸線をずらした部分に使用されたモンローカーブに、湾曲させたアルミパネルの被覆が施されているのを目にした時だろう。それは延長されて立方体の形態にさらっと入り込み、表面のみの存在でありながら、構成を左右している。

磯崎新「神岡町役場」(現・神岡振興事務所)1978年(写真:宮沢洋)

 以前の磯崎新との違いは明白である。この表層期の作品では、なぜ正方形なのかという根拠が、あからさまに失われている。それはもはや見えないグリッドを幻視させるといった奥行きを持たない。あくまでも表面に留まりながら、異なった形態を接合した建築の全体に、設計者が「神岡町役場の建築に要望された」と語る「シンボルとしての役割」にかなった統一感を与えている。

「ほころびがなくつき通された嘘」が現れた

 神岡町役場は、やはり磯崎新にとって画期だった。言ってみれば「ほころびがなくつき通された嘘」が現れたのである。以前の磯崎新は「ほころび」に言及していた。群馬県立近代美術館に関する1976年の説明は「被膜と骨体はこの建築においては、敢えて整合化されていない。〈中略〉無理におさめつくすことをやらずに、部分的にほころびさせている。」というものだった(注2)。

 具体的な部分で言うと、正面左手の斜めに突き出した棟において、アルミパネルの壁がピロティの柱に変わり、その奥に打ち放しコンクリートの壁がのぞく部分などだろう。これに続けて磯崎新は「着物の裏地がすそのあたりにちらりとみえるといった比喩でもいい。」と書いている。

 この建築の奥行きが消滅するという変化は、同時期の伊東豊雄と同一である。連載の第3回では、「上和田の家」 (1976年)の雑誌発表時に「表層を横すべりしつづけていた私たちは、表層の裂け目から顔をのぞかせている断層を垣間みて背後の存在の一端を知ることがある。」と記していた伊東豊雄が、「PMTビル」(1978年)に至ると「断層」を閉じ、「表面のみの世界」を完成させたことを論じた。それによって、かえって認識の対象となる「裏側の世界」をイメージさせる姿勢に転じたのだ。

 長谷川逸子が「焼津の家2」(1977年)で、師の篠原一男とは異なり「背後に何もないもの」を目指したことも連載の第2回で扱った。かつての「ほころび」を閉じ「裏地」を見せなくなるという磯崎新の変容も、それと同じ形をとっている。

伊東豊雄や長谷川逸子ほど明確ではない表面に対する意識

 そして建築の表面は、本当か嘘かを超えたものになる。磯崎新は神岡町役場に関して「近代建築が生んだすべての形態言語は十分に借用されていい。乾式工法の表現も金属的な光沢の生むメタフォアも」とも記している。実は、この論考を全体として見た際には、「フォルマリズムの方法について」というタイトルや「形態言語」という言い方に見られるように、表面に対する意識は伊東豊雄や長谷川逸子ほどに明確に現れているわけではなく、空間派としての磯崎新の本質が露呈していると言えるのだが、この建築で強い印象を与えているアルミパネルとガラスブロックの曲面に初期モダニズムのイメージが重ねられていることは、引用文に示されている。

 かつて群馬県立近代美術館の「1.2mの正方形を単位としたアルミニウムとガラス」を、磯崎新は「立方体フレームという抽象的な形態」と説明していた。やはり神岡町役場は、それと似て非なる意識の産物であるようだ。むしろこれは、伊東豊雄が「小金井の家」(1979年)に「コルビュジエの初期作品に現れる形態モチーフの使用といった意図」があると述べていたこと(連載第8回)に匹敵する。モダニズムが敵対するものから自在に利用する対象へと変わり、ただしそこで引用されるイメージはまだ素材や構法と切り離せない、これは表層期の性格の一つである。

新色ネオパリエの市販化に結び付いた「NEG大津工場厚生施設」

 磯崎新は「NEG大津工場厚生施設」(1980年)でも自律し、意味を漂わせる大きな面を主題とした。視覚的な印象の大部分が、ガラスブロックとネオパリエという素材によって規定されている。これは二つの建材を生産する主要メーカーである日本電気硝子の創立30周年事業として建設された従業員用厚生施設だからで、与件をドライブさせる設計者のテンタティブ(暫定的、試験的)な性格が見て取れる。

磯崎新「NEG大津工場厚生施設」1980年(写真:倉方俊輔)

 実際、ここでは新たな素材開発がなされ、それが従来とは違った内外観を生み出している。ガラスブロックについては、融解し凝固するというガラスの製造過程を形として表現した炎模様の新たな製品がデザインされ、それらを透過した味のある光が内部の体育館や食堂に注ぐ。ネオパリエは従来、白色のみだったが、この建物のために茶色とベージュ色、灰色の3色が製作されて、内外をストライプで彩っている。ベージュ色のネオパリエは市販化された(注4)。初期のモダニズムがそうであったように、設計者とメーカーとの健康的なコラボレーションが実現したとも言える。

「表面だけの世界」は問いを上滑りさせる

 同時に、ここにはアイロニーが漂っている。当然ながら現在はモダニズムの時代ではない。最初ではないのである。この建築の既視感は、意図されたものだ。食堂の天井面には柱頭がだまし絵で描かれている。ある地点から見ると角柱の構造体が様式的な柱に変わる。歴史主義もモダニズムもフォルマリズムも、すべて等価な表層となっている。いずれも「完全には正当化できない」ことを前提に、そこから「有効な側面をひろいあげる意識」が作品を成立させている。果たして真面目か不真面目か、ポジティブなのかネガティブなのか、「表面だけの世界」は問いを上滑りさせる両義性を備えるから強靭であることを、磯崎新も1980年には見出していたのだ。

 この施設で試された歴史主義的なデザインやネオパリエのストライプパターンが後の「つくばセンタービル」(1983年)に引き継がれている。ただし、表層期においては、それがあくまでも面の問題に限定され、また素材と切り離せない独特の質を有していた事実は、改めて強調しておきたい。

次回(谷口吉生考)に続く。(近日公開予定)

注1:黒川紀章「利休ねずみ考」(『新建築』1977年9月号、新建築社)197〜200頁。これ以前にも「ソニータワー」発表時の、黒川紀章「情報の樹」(『新建築』1976年7月号、新建築社)181頁にも「利休ねずみのような生命感を抽象化した化石の状態にまで到達してくれれば」という一文が見られるが、主題化されるのは1977年からで「利休ねずみ考」が『グレーの文化―日本的空間としての「縁」』(創世記、1977年)に再録され、黒川紀章の編集により『藝術新潮』1978年6月号に「特集 :『利休ねずみ』の世界」が組まれた
注2:磯崎新「フォルマリズムの方法について—神岡町役場の設計」(『新建築』1978年9月号、新建築社)186〜187頁。
注3:『SD』1976年4月号、65頁
注4:『新建築』1981年6月号、152頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)