7人の名言05:黒川紀章「安藤忠雄は時代を見抜いたのではなく、彼の個性がたまたま…」

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 建築家の言葉を1日1人、計7人取り上げていく「7人の名言」。私(宮沢洋)が日経アーキテクチュア在籍時に関わった書籍や特集記事などから言葉を拾い出していく。折り返し地点を過ぎた5人目は、これまでの4人とは全くキャラクターが異なる黒川紀章(1908~1997年)を取り上げる。

(イラスト:宮沢洋)

 私は何度か黒川を取材したことがある。自己主張の強さはメディアを通して伝えられるイメージどおりだが、実際に話すと嫌味な感じはなく、愛嬌があって憎めない人だった。そして何より、話すにつれて「建築大好き」感があふれ出てくる真摯な人だった。メディアのイメージ(特に都知事選の記憶)で“食わず嫌い”の人も多いと思うので、この機会に黒川がどんなことを語っていたのか、知っていただきたい。

 黒川は、「変化の先を行く」ことを公言していた建築家だ。この連載の初回で私は、「目まぐるしく変わる社会状況のなかで、私がこのサイトで伝えるべきは、変化に揺るがない真理や、普遍的な言葉なのではないか」と書いた。その趣旨にブレはない。この記事では「変化の先を行く」上での真理と、そのための覚悟を黒川に学びたい。

 「今、メジャーなものは、大体ダメなものです。次の時代に来るものは、マイナーな形でしか現れません。マスコミも時代を先取りしているように見えますが、実はその時代の流行を追いかけているに過ぎません」(「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊より引用)

 まるでマーケターのような自信満々な発言である。日経アーキテクチュア1994年9月12日号のインタビューの中の言葉だ。

 このコメントの後、そのために自分はこんな努力をしているという話が続く。

 「未来を読むには、様々な分野の思想や哲学を踏まえた学術的なアプローチが欠かせません」

 「私は月曜の早朝から金曜の深夜までは、建築設計の業務に没頭しているわけですが、土曜と日曜は、パッと切り替えて、読書や原稿の執筆、思索の時間に当てています」

 「私は毎週必ず、自分自身が作成したこのメモを見ているのです。(中略)モダニズムなどメジャーな世界を一方にまとめ、もう一方は、モダニズムから逸脱したマイナーな世界をまとめています。マイナーな世界のなかに、次の時代のヒントになるようなことが隠されていると思うのです」(いずれも「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊より引用)

 なるほど…。今であれば、「アフターコロナの建築」について、よく言われている言説を「メジャーな世界」の方にまとめ、誰も興味を持たないマイナーな事象をもう一方に書き出して、今後のヒントを探したのだろうか。

 こんな発言も、耳が痛い。

 「時代の変化というものは、建築界だけで起きるとか、あるいは政治の分野だけで起きるなどということは、絶対にないのです。これはルネサンスを見ても分かるし、近代建築運動を見ても分かります。時代が動くときは必ず連鎖反応を起こすのです。したがって、世界中の建築家が集まって、建築雑誌をペラペラめくりながら『これが流行っているから、みんなでこれをやっていこう』と言ったってナンセンスです」(「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊より引用)

「前衛」で居続けることの苦悩

 黒川は1934年名古屋市生まれ。京都大学で西山夘三(うぞう)に学び、東京大学大学院で丹下健三に学ぶ。在学中から書籍を出して名前を知られる「スター」だった。黒川紀章建築都市設計事務所を開設したのは1962年、28歳のとき。初期の代表作である「寒河江市庁舎」や「山形ハワイドリームランド」が完成した1967年にはまだ33歳だった。晩年は、2007年に都知事選と参院選に立候補するも、いずれも落選。その年の10月に亡くなった。享年73歳。

 天才肌で「超」が付く自信家でありながら、聞かれれば素直に弱みも語るのが黒川の“憎めなさ”だった。

 黒川は、日経アーキテクチュア1997年3月24日号の「私の駆け出し時代」という記事のなかで、「変化の先を追い続ける生き方」の苦労を語っている。

 「博覧会(1970年の大阪万博)の実験的なパビリオンのため前衛的建築家のイメージがついて回り、仕事から遠ざかってしまったのです。財界の人から、『三角やカプセルでは困ると担当者が言うので、ほかの人に頼んだ』という話も何度か聞きました」

 「昭和天皇の園遊会で、陛下から『まだ、カプセルをやっているんですか』と声をかけられたくらいですから。でも、あのような建築が普遍的に受け入れられるわけではありません」

 「事務所が軌道に乗ってきたといえるのは、ようやく7~8年前くらい(1990年前後)ですよ。それまでは自己負債もあって、本当に返せるか、不安を抱えていました」(いずれも「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊より引用)

 先の1994年のインタビューでは、持ち前のサービス精神で、安藤忠雄氏についても言及している。「ベネッセハウス ミュージアム」や「セビリア万博日本館」(ともに1992年)などを経て、世界に飛躍しつつあった頃の安藤氏だ。

 「安藤忠雄の登場というのは、そういう時代背景のなかで可能だったと思います。(中略)彼は時代を見抜いたのではなく、彼の個性がたまたま時代とマッチしたのです。仮にもう一度、時代が変わっても、彼は変われないと思います」

 「リチャード・ロジャースやノーマン・フォスターなども彼と共通しています。1つの道を極めるのが、建築家の道だと考えているんですね」

 「私自身は、そうはなりたくありません。自分の個性を強く打ち出し、どこへ行っても同じタイプの建築をつくる、といったタイプの建築家にはなりたくないのです」(いずれも「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊より引用)

 今回は7人中の5人目ということで、“変化球”として黒川紀章を取り上げた。1つの道を極めたくないと明言する黒川。その生き方を真似はしないまでも、「変わり続ける葛藤」の中に学ぶべき点も多いのでないか。

◆参考文献
「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊/発行時定価1800円+税/出版社在庫なし、中古本はアマゾンなど

寒河江市庁舎/1967年竣工(写真:宮沢洋)

▼初回から読む
宮脇檀(2020年5月11日公開)
▼次の回を読む
林昌二(2020年5月22日公開)