7人の名言07:隈研吾「すべての芸術家にはクラフトマン化する罠が待ち受けている」

Pocket

 建築家の言葉を1日1人、計7人取り上げていく「7人の名言」。いよいよ最終回。このシリーズを書き始めた当初は、丹下健三で締めるつもりだったのだが、評価が定まった故人ばかりを取り上げるのは守り過ぎな気がしてきた。そこでラストは、今、飛ぶ鳥を落とす勢いの隈研吾氏を取り上げる。存命の建築家なので、「氏」をつけて呼ぶ。

(イラスト:宮沢洋)

 隈氏は1954年生まれ。2020年の今年は66歳だ。

 最初に取材したのは、隈氏が40歳前後だった頃で、まだスタッフは数人だった。以降、数えきれないほど取材をさせてもらっている。これまで一番多く取材した建築家かもしれない。実作以外のことについてコメントをもらうことも多い。私の中では、「記事になるコメントを話してくれる率」ナンバーワンの建築家だ。

 なぜコメントが記事になる確率が高いのか。2つの理由があると思う。これは「隈氏がなぜ今、たくさんの仕事を抱えているのか」という問いにもつながるので、コロナ終息後の受注のために参考にしてほしい。

 理由1。自身の置かれている状況を、“社会の先読み”と絡めて語ることができること。例えば、「NA建築家シリーズ 隈研吾」(2010年、日経BP社刊)に収録された古いインタビューを読み返していて、「おおっ」と思ったのはこの下りだ。1992年のインタビューである。

 「僕の今の事務所は、普通の木造の一軒家だったものですが、ここに情報機器があってハイテク装備をすれば、大オフィスよりも機能的で、はるかに能率のいいオフィスができるかもしれない。大きなシンプルなボックスの中で労働するのはむしろ、退屈して能率が悪いというくらいになっているわけです。(中略)僕はこうした事例が、これからの仕事のあり方とか、空間のテーストを暗示しているような気がするんです」

 なんと、アフター・コロナのワークスペースについて語っているようではないか!

 「大オフィスは淘汰される」という未来予測だけでは一般論となってつまらないが、自分の木造一軒家オフィスを例に出すことで、具体性が増す。だから、記事にしやすい。

 記事化率が高いもう1つの理由は、その先読みが基本、ポジティブであることだ。象徴的なのが、「負ける建築」。いまや隈氏の代名詞ともなった書籍「負ける建築」(2004年、岩波書店刊)のタイトルを見たとき、私は「やられた、これは売れる!」と思った。そのタイトルを見て、だれも「売れない建築家の遠吠え」とは思うまい。大抵の人は「どうやって、負けて勝つの?」と期待する。たった5文字なのに、強力なメッセージ性である。

 隈氏の“ポジティブ転化力”が分かるコメントを、日経アーキテクチュアのインタビューから拾ってみた。

 「これ(M2ビル)は逆に、バブルの時代にできなくて良かったと思っているんです。バブルの時代にできたら『ポストモダン』を問うたこの作品も効果は薄かったんじゃないでしょうか。(中略)逆に、今の時代になおかつこれを問うというのは、『こいつはやはり何か考えているぞ』と受け止めてくれる人もいるんじゃないかと思うんです」(M2ビルがポストモダン見直しのムードのなかで完成したことを問われて。1992年2月17日号インタビュー)

 「ポストモダンの建築で建築家が仮説的な表現をしてきた背景には、資産価値、あるいは私有ということに対する疑問を、かなり先取りしていた部分があると思います。その表現自体が問い直されているというよりは、むしろその点では、建築家は預言者的だったのではないでしょうか」(阪神大震災後の伊東豊雄氏との対談で。1995年4月24日号)

 「オブジェクトを求めるという20世紀の惰性みたいなものは、もう惰性でしかなくて、気にしなくていいのだと思います。テーマパークを見ても、人々は1つのオブジェクトに興味があるからそこに行ってみるということではなくて、そこでのシークエンスの変化や、その中にあるレイヤーに価値を見いだしています」(隈氏に建築を依頼する発注者はむしろ目立つ建築を期待しているのではないかと問われて。2001年6月25日号インタビュー)

「M2が斎場に転用される」と聞いた隈氏は…

 隈氏のポジティブ転化力ということでは、私だけが知るエピソードがある。

 2002年のこと。私は東京・環八通り沿いに立つ「M2ビル」(もともとは自動車のショールーム兼オフィス)が「斎場」に代わるという情報をつかみ、隈氏に電話でコメントを求めた。電話で事情を話すと、隈氏はその情報をまだ知らなかった。なにしろ「斎場」である。普通なら相当、動揺するはずだ。私は、「当初のコンセプトが変わってしまうのは大変残念」「まずは原設計者に相談すべき」といったコメントを想像した。ところが、隈氏の答えはそんなありきたりなものではなかった。

 「転用は面白い。建て主が変わっても対応できる空間の強さを持っていたということだ」(日経アーキテクチュア2002年11月25日号ニュースから引用)

 私はその見事な切り返しに感動した。正直、それまで隈氏の建築にさほど関心を持っていなかったが、それ以来、隈氏に注目するようになった。

 隈氏はおそらく、そのようにして日常会話のなかでクライアントの心をつかんでいるのだろう。ここ10年ほどの隈氏の活躍は今さら説明するまでもない。

 先の1992年のインタビューでは、現在の自分への予言(あるいは警告?)ともとれるような話をしているので、やや長い引用になるが、この記事の結びとしたい。

 「建築家をはじめ、すべての芸術家にはクラフトマン化する罠が待ち受けている。例えばリチャード・セラの『鉄のさび』というのも、最初はすごく暴力的な『鉄のさび』が都市の中にボンと置かれたわけで、皆が『なんだ、これは彫刻か。ただの鉄のさびじゃないか』と思った。しかし、(中略)最後は誰が見ても、ああ、リチャード・セラがまたこういう民芸品をつくっているなという世界に入っていった」

 「だから僕はなるべくクラフトマンになりたくないと思っているんです。絶えずそういう罠から抜け出して、新しい建築をつくっていきたいなと思っています」

◆参考文献
「NA建築家シリーズ 隈研吾」2010年/日経BP社刊/定価3000円+税/アマゾンなどで販売中

M2ビル/1991年竣工(写真:宮沢洋)

▼初回から読む
宮脇檀(2020年5月11日公開)