世界遺産ブラジリア写真ルポ02:魅せる庁舎、見せないミュージアム、渡れない歩行者

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 この写真、何の施設かお分かりになるだろうか。オスカー・ニーマイヤーがブラジリアの三権広場近くに設計した建築である。

(写真:宮沢洋、以下も同じ)

 大抵の人は美術館か博物館だと思うだろう。質問するからにはそうではない。答えは、ブラジル外務省庁舎だ。「弓の宮殿」とも呼ばれる。

「自由で官能的な曲線」

 ブラジリアへの遷都(1960年)に際しては、とにかく庁舎を優先的につくる必要があり、ミュージアムの類いは後回しにされた。ニーマイヤーの作品集を見ると、この外務省庁舎には「1962年」のクレジットがあり、三権(立法・司法・行政)の施設よりも少し遅れて完成したようだ。それもあってか、庁舎群のなかでも、明らかにデザインに力が入っているように見える。

 コンクリート打ち放しの列柱(型枠は小幅板)と、それを横につなぐアーチがうっとりするほど美しい。ニーマイヤーのこんな言葉が頭に浮かぶ。

 「私が心惹かれるのは直角や柔軟性に欠く直線ではない。ただ自由で官能的な曲線だ」(写真は2015年の「オスカー・ニーマイヤー展」@東京都現代美術館の展示風景)。まさに官能的な曲線。

 コンクリートの列柱は断面がくさび型で、外周側は手でつかめるほど薄い。ニーマイヤーの建築は、マッシブな構造のイメージがあるが、こういう華奢な架構で攻めるときには、徹底的に繊細に、薄く見せる。

 建物の周りの水盤もただならぬ広さ。池には鯉が泳ぐ。水盤に浮かぶ草は高さがきれいにそろえられており、これは相当こまめに手入れをしているに違いない。

 内部の見学ツアーがあると聞いていたのだが、残念ながら筆者が訪れた日はやっていなかった。今回のブラジルの旅で最も悔しかったのが、ここの内部を見られなかったことだ。なぜなら、ここには、ニーマイヤーの建築の中でも最も美しいといわれる階段があるからだ(人によっては「世界一美しい階段」とも)。どんなものか気になる方は
Brasilia Ministry of Foreign Affairs stairs」で画像検索してみてほしい。

司法省もびっくり!

 庁舎群のなかでは、これにも驚いた。

 これもどう見ても文化施設だが、実際は司法省庁舎。日本で作品集に載っている小さい写真を見ているときには分からなかったのだが(ニーマイヤーの建築の中ではさほど評価の高いものではないらしく扱いが小さい)、実物を見て目が点。正面の庇のような部分から滝がじゃんじゃん落ちているではないか!

 雨落としを彫刻的にデザインしたものを「ガーゴイル」というが、この巨大ガーゴイルはどう考えても雨水ではない。水盤の水を循環させているのだろう。

 間近で庇を見上げても、大量の水がどこをどうやって循環しているのか分からない。それに、このコンクリートの塊は、細い柱からどうやって突き出しているのか…。魔術のようなディテールだ。

 滝が落ちる大迫力の南側外観とは対照的に、西側の玄関に至るコリドーは繊細だ。驚くほど薄い壁柱が、水盤に浮かぶように立つ。普通の建築家ならば、これが“生涯の代表作”になるところだろう。

「見せないミュージアム」へ

 魅せる庁舎建築の一方で、あえて「見せないミュージアム」が三権広場にある。見せないというのは内部を見せないのではなく、外観の存在感を消しているという意味だ。筆者はブラジリア滞在中、三権広場に2度行ったのだが、初日にはこれに気付かなかった。

 三権広場のほぼ中央にある「ルシオ・コスタ博物館」だ。これは遷都よりもずっと後の1992年に完成した。

 日本では1991年に高松伸氏の設計による地下オフィス「アーステクチャー・サブワン」が竣工して地下建築が話題になったが、それとほぼ同時期。モダニストのニーマイヤーも、ポストモダン末期のデザイン潮流「消える建築」を意識していたということか。

 ここで少し、ルシオ・コスタとブラジリアの都市計画について説明しておこう。

ニーマイヤーとコスタの関係は?

 遷都を公約に掲げたジュセリーノ・クビチェク(以下、JK)が大統領に当選し、遷都に取り掛かったのは1956年1月。同年に実施された都市計画コンペで選ばれたのが、建築家で都市計画家のルシオ・コスタ(1902~98年、下の写真)だ。コスタはオスカー・ニーマイヤーの師でもある。

 コスタの提案したマスタープランは「パイロット・プラン(プラノ・ピロット)」と呼ばれ、その左右対称の形状から「弓と矢」あるいは「飛行機」に例えられる。矢の先端(あるいは飛行機のコクピット)が三権広場、中心軸の両岸に庁舎機能、両翼部分は主に住宅というゾーニングだ。

 JK大統領は任期の5年内に遷都をやり遂げなければならなかった。なぜなら、2期続けて大統領をやることは認められていなかったからだ。そこで4年で主要な首都機能を完成させ、新首都を街びらきするという超強行軍のスケジュールとなった。下の写真は、工事着工前の1956年、何もない原っぱを視察するJKだ(大統領記念館の展示映像)。

 都市計画コンペに当選したコスタは、新首都建設公社の主任建築家を、教え子であるオスカー・ニーマイヤーに任せた。建築面においては全権的な立場だ。このときニーマイヤー49歳。当時、既にその名は世界に知られており、かつ脂の載った年齢だ。とはいえ、建築家でもあるコスタが、なぜそんなおいしい役割を弟子に? と、不思議に思う。

 コスタがブラジリアで設計した数少ない建築の1つが上の写真のテレビ塔。この足元の造形を見ると、建築家としても才能がありそうだ。なのになぜ…。

 実は、JK大統領とニーマイヤーは、JKが県知事時代からの知り合いだった。ニーマイヤー初期の代表作であるパンプーリャの建築群は、JKが県知事時代に発注されたものだ。ブラジリアの遷都計画に際しても、JKは当初、ニーマイヤーに都市計画の策定を打診したが、ニーマイヤーはそういう器ではない、とコンペを薦めたという。

 ニーマイヤーとコスタの仲を詳しくは知らないが、そのエピソードを聞くと、「ニーマイヤーは本心で辞退したの?」と思ってしまう。コスタの没後、ニーマイヤーの設計で完成したコスタ博物館が、入り口も分からないほど三権広場と同化しているのは、ニーマイヤーの長年の鬱屈した感情の表れなのではないか…。前回リポートした「自由と民主義のパンテオン」(1986年、下の写真)と存在感が違い過ぎる…。いやいや、そんなことを考えてはいけない。

都市計画の成否は…

 真相はさておき、遷都はJKの任期中に実現した。JKの実行力はもちろん、コスタの指導力もあったのだろう。

 街びらきから60年たった今見ると、ニーマイヤーに全権委任して生まれた建築群は明らかに「吉」と出ているが、コスタの都市計画が成功だったかどうかは何とも判断が難しい。

 この都市は自動車移動を前提としてつくられている。地下鉄がない。移動は自家用車かバス、観光客はほぼタクシーだ。

 筆者はタクシーと徒歩でニーマイヤーの建築を巡った。バスは乗り場がこの有り様で、相当の語学力と生命力がないと乗り降りできない。

 道路は片側4、5車線が当たり前。その大きな道路にほとんど信号がない。道の向こうに目指す建物は見えるのに、信号を渡ろうとすると1km近く遠回りするようなことが当たり前に起こる。信号のない場所で走って渡る人も多いが、5車線の道を信号無視で渡るのは命がけだ。

 リオやサンパウロに比べると治安はいいが、それでも犯罪率は日本よりずっと高いという。正直、観光客が歩いて回るのが楽しい街ではない。

 広い幹線道路が混まないかというと、そんなことはない。移動が車しかないので、朝の通勤時間は渋滞する。下の写真のタクシー運転手の顔を見れば、渋滞のイライラは想像がつくだろう。


 そんな不満たらたらの街であっても、「来て本当によかった」と思わせてくれるのは、ひとえにニーマイヤーの建築があるからだ。なるほど歴史遺産が全くなくても世界遺産となった(1987年)のもうなずける。リポートはこれで終わりではない。次回はいよいよブラジリア建築ツアーの目玉、「ブラジリア大聖堂」に足を踏み入れる。(宮沢洋)

▼第1回、第3回、第4回の記事
世界遺産ブラジリア写真ルポ01:遷都60年!ニーマイヤーの奇跡、三権広場へ
世界遺産ブラジリア写真ルポ03:傑作、ブラジリア大聖堂は「二度完成した」
世界遺産ブラジリア写真ルポ04:JK記念館、ファティマ教会、青の聖堂─西も見応えあり!