連載「よくみる、小さな風景」10:バス停で生まれる「空間の耕し」──乾久美子+Inui Architects

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建築家の乾久美子氏と事務所スタッフが輪番で執筆する本連載。第10回はスタッフの藤澤太朗氏が観察する。テーマは「エキ(駅)」。そのなかでも特に「バス停」に注目する。「一定以上の設えになると、人々の工夫の余地がなくなる」という分析は、建築設計者にとっては聞きたくなかった指摘かも…。でも、写真を見ると確かにその通り。(ここまでBUNGA NET編集部)

 今回取り上げる小さな風景のテーマは「エキ」である。鉄道駅にはじまる交通結節点は人や荷物の乗り降りのための場所であるが、現代では、そうした基本的な機能に加えて、地域の人の活動拠点やショッピングを行う場所など多くの役割を担う場所になっている。これらをまとめて「エキ」と名付けて観察を行っている。

(イラスト:乾久美子)

 乾事務所では電車、バス、フェリーなど乗り物を限定せずに「エキ」事例を集めている。それらを眺めていると、特に居心地の良さそうな場となっているバス停がいくつかあった。それらに共通するのは、人々がありふれた周りの環境に着目し、「こうすると心地よさそう」や「これは使えそうだ」といったようにその環境から読み解いた資源を手がかりに、能動的に居場所をつくりあげている点であった。

 今回は「エキ」の中のバス停に焦点を当て、事例の分析を通して考察を進めていくことで、どのように居場所が生み出されているのか、そのヒントを得たいと思う。

バス停にみる資源と人が生み出す場

 一つ目の事例は、東京都渋谷区にある放送センター西口というバス停である。

(写真:乾建築設計事務所、以下も)

 バス停として簡単な屋根と足が曲がった壊れかけのベンチが設えられているが、大きな街路樹や背後の駐輪場など周囲の環境と一体化することで、都心の中にある小さなオアシスのように感じられる。さらに、夕方になると、近隣の方の夕涼みの場所としても活用されているそうだ。
 
 バス停がなくとも、この場所は大きな街路樹が脇にある豊かな歩行空間であると認識できるだろう。しかし、この場所にバス停が設けられたことをきっかけに、より積極的に都心の緑地という資源を使う場面が生み出されているようにみえる。

 二つ目の事例は、神奈川県横須賀市にある馬堀海岸バス停である。屋根もベンチもないこの場所では、バス停看板を先頭に、バス待ちの列がずるずると緩やかに形成されている。特徴のあるかわいらしい形の庇は雨よけ、背後の不動産屋の広告チラシが貼り付けられている窓はサッシ下の腰壁がベンチの役割を果たし、さらには隣の商店街へと続く階段にも人がたたずむ。その全体がゆるやかにバスの待合所をかたちづくっている。

 もしかすると、バス停がなかったらこの場所はありふれた郊外の風景として見過ごされていたかもしれない。しかし、この場所にバス停が設けられることで初めて、バスを待つ人々が周囲の環境の中から小さな段差や庇下などの資源を発掘する状況が生まれ、空間の居場所化が起きているといえそうだ。

 三つ目の事例は福岡県飯塚市にある愛宕バス停である。屋根があるだけの場所に、地域の人がつくったお手製のイスが置かれ、バス停横の荒れていた市有地は(市の理解を得たうえで)地元自治会により花壇として耕され、地域の情報を共有するための掲示板も設置されている。休憩場所としての利用や花壇の水やり、情報の更新といった維持管理などの継続的な活動が行われているそうだ。

 この場所でも先述した事例と同様にバス停が設置されることで、バス停周りに地域の活動が集まってきているようだ。バス停横の空いている土地という資源を発掘し、それを下敷きにしてさらなる空間の耕しが起こる。そうした行いの連続がみんなの庭とでもいえるような場をつくり出している。

 また、このバス停が歩道と市有地にまたがるように設置されている点にも着目したい。バス停の屋根が市有地と歩道のバッファーになることで、手前の花壇部分の市有地と道路の境界線を緩やかにし、この場所は誰にでも開かれているように感じられる。

「エキ」=「未目的」の空間

 青木淳による『原っぱと遊園地』(2004)で著者は、「駅」について次のように記している。

 「『駅』とは、定義上それ自身を目的としない場所である。目的地から目的地へ移動する人にとってのひとつの通過点であり、目的地ではない。また、『駅』は交通のコントロールという以上の、そこでの人の行動をあらかじめ決めるようなどんな目的も持ち合わせていない。『駅』は目的地(end)ではなく、目的(end)もない、という二重の意味で、あらかじめ目的が剥奪された空間なのである。(中略)ともかく『駅』とはそういうふうに『交通』が一瞬束ねられた『未目的』の空間なのである。」

 青木の本来の論旨からは外れることになるが、「駅」=「未目的」の空間という言葉を借りつつ、事例の観察と合わせて論を進めたい。

 「未目的」の空間を考えるうえで、反対に目的のある空間を考えてみる。例えば学校では、音楽は音楽室、体育は体育館かグラウンドというように、何を学ぶかという目的とその行為に対して空間が決まっている。これらの空間は、目的のための行動を想定した至れり尽くせりの設えを持ち、人は想定された行為を行う。

 一方で「エキ」は「未目的」の空間であり、目的地から目的地へ移動する人の交通が一時的に保留され未目的な状態におかれる。二つ目の事例からもわかるように、バス停の最低限の機能を担保するための設えは、交通結節点であることを示すための看板のみである。こうした最低限の設えは決して人々に行為を促すものとは言えない。しかし、それゆえに空間があらかじめそこでの人々の行為を決めてしまう、ということも起きない。言い換えるならば「未目的」な空間での行為は、その人自身にゆだねられている。

 また、二つ目の事例における最低限の設えに対して、一つ目と三つ目の事例に見られるバス停は屋根やベンチがそこに加わっているが、これらは近所の人々の持ち寄りなどの行為によりアドホックに環境が整えられてきたことが読み取れ、移動する人以外にも開かれ、気軽に使える雰囲気を醸し出している。

 対して、バス停であったとしてもある一定以上の設えになると、人々の工夫の余地がなくなることにも着目したい。近年都心で見かける広告看板付きのパッケージ化されたバス停は、バスを待つための設備として整ってはいる。しかし、バスを待つということに特化した設えでは、人々が機転を利かせてバス停を居心地の良い場にしていく行為は起きにくい。

 それでは、「未目的」な空間において、何を手がかりに人々の行為は発生するのだろうか。それはこれまで見てきた「エキ」のバス停事例から明らかなように、空間の周りに存在する資源と、それを発掘する人間の想像力だろう。

資源の発掘と空間の耕し

 バスを待つ際に、「未目的」な空間に投げ入れられることで、いままで見えていなかった些細なことに気が付く。「実はこの段差に腰掛けると待つのがすこし楽」であったり「この時間は木陰が落ちて涼しい」といったようなことだ。今回の考察からこうした気づきは、すでに周囲の環境から資源の発掘をし始めている状態といえるだろう。そうした些細なものであっても、そこでのふるまいを変化させ、なかには気を利かせた人が他人にも気が付くように手を加えたりする。そうした行為の連鎖は、まるで空間を耕すと言っていいような、日々不断に変化する様相を呈する。

 上述したように、今回取り上げた事例のような居場所の成立は、資源の発掘と空間の耕しによって起きている。その上で、実際のその現れ方は千差万別であることがとても面白い点だ。事例を見るに簡単には変化しない環境の中で、見出した資源によって使い方が導かれていくように見えることは、空間を設計するうえで注目すべき点のように思える。

藤澤太朗(ふじさわたろう):1997年長野県生まれ。2021年横浜国立大学都市科学部建築学科卒業。2023年横浜国立大学大学院Y-GSA修了。現・乾久美子建築設計事務所勤務

乾久美子(いぬいくみこ):1969年大阪府生まれ。1992年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1996イエール大学大学院建築学部修了。1996?2000年青木淳建築計画事務所勤務。2000乾久美子建築設計事務所設立。現・横浜国立大学都市イノベーション学府・研究室 建築都市デザインコース(Y-GSA)教授。乾建築設計事務所のウェブサイトでは「小さな風景からの学び2」や漫画も掲載中。https://www.inuiuni.com/

※本連載は月に1度、掲載の予定です。連載のまとめページはこちら↓。

(イラスト:乾久美子)