連載「よくみる、小さな風景」最終回:誰によっても可能な「資源の発見」──乾久美子+Inui Architects

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建築家の乾久美子氏と事務所スタッフが輪番で執筆する本連載。1年12回にわたった連載の締めは、隊長の乾久美子さんの執筆。もちろんイラストも乾さん。うーん、このゆるっとしたイラスト、“小さな風景ロス”になりそう…。(ここまでBUNGA NET編集部)

 これまでスタッフと共に「小さな風景」から何を学べるのかを考察してきた。本連載の最終回をむかえるにあたって、「小さな風景」が誰によってつくられているのかを考察してみたいと思う。

(イラスト:乾久美子)

 1回目(小さな風景から定着の作法をさぐる)で書いたように、「小さな風景」の基本は「自分で使う場所を自分でつくりあげている現場」であるが、自分でつくりあげるとはいっても何でもよいわけではない。場所の見つけ方や何かを付け足す際に創造性が発揮されていることが望まれる。さらに、「その現場が、なにかしらの形で人と共有されていること」も重要だと考えている。そのような観点から事例を見ていこう。

(写真:乾久美子建築設計事務所、以下も)

 まず「道具と設備の居場所」の中に時々でてくる建物のバックヤードの風景である。設備置き場や水場のまわりに掃除道具が置かれている事例が多い。撮影してきたものの中には、バックヤードと思えないぐらいに整理が行き届いているものもあり、雑多なものそれぞれにきちんとした指定席が用意されている。そこからは、メンテナンスに関わるチームメンバーがお互いに気持ちよく作業できるようにする配慮が見られるし、掃除などの裏方の作業の中にも、意義や生きがいを見出そうとうする意志が伝わってくる。

 また、道具の指定席も、壁の下地が発見的に利用されていることが多く、環境のよみとりとそれに対して加えられる工夫がうまく連動しているようだ。また、使う発見を促す構造物の存在にも着目したいところである。自由に釘やヒートンが取り付けられる相手をさりげなく用意しておくことも、生きた空間づくりに参加する方法といえるだろう。

無機質な空間でも居場所感に驚き

 こちらはデパート跡地を市民の公益施設として使い直している事例。長野市のもんぜんぷら座である。最低限の改修をした後に、備品によっていろいろなコーナーがつくられている。いかにも自治体職員の仕事!といった感じでパイプ椅子や折り畳みテーブルが集合しており、オシャレさのカケラもない。話だけ聞くと悲惨なスペースになりそうなところ、実際に行ってみるととてもよく使われている。

 備品のレイアウトも一朝一夕でできたとは思えない絶妙さがあり、特に、観葉植物の数は空間づくりに苦心する職員の気持ちが表れているからか、不思議と全体的にやさしげな雰囲気が漂っている。蛍光灯だらけで窓もない無機質な空間にもかかわらず居場所感のある場所がつくれるのか、と驚いた事例である。

 他のフロアには学習スペースがぞんざいに用意されている。デパートだった面影のある空間を別の用途に使うということに、若干の背徳的な匂いがするからだろうか。また、新品ではなく中古感のある場所や備品に親しみやすさを感じるからだろうか。ティーンエイジャーが積極的に使っている姿が印象的だ。
 
 どちらのコーナーも市民の積極的な利用が市の職員による備品のレイアウトの工夫を促し、さらに、備品のレイアウトの工夫がさらなる市民の積極的な利用を誘発するというように、ここに集まる人々が全員でこの場所をつくっている感じがする。こうした人々の存在が、中心市街地におけるデパートの撤退という都市計画と経済の失敗を乗り越えて、繁華街の片隅に不思議な落ち着きと自由を感じる居場所を生み出している。

描かれた「小さな風景」

 ちょっと変則的になるが、描かれた「小さな風景」を紹介する。高知県出身の漫画家である青柳祐介のイラストである。高知県内の旅館のロビーに掲げられていたものを撮影してきた。郷土愛に溢れた精緻で美しい筆使いにまずは目を奪われたのだが、それ以上に驚いたのが、オリジナルの「小さな風景からの学び」で撮影していた場所が描かれていたことだ。中土佐町の久礼湾である。

 堤防の切れ目に住民が仮設的に屋根をかけ、おばあさん達の夕涼みの場所になっているという、小さな風景の数ある事例の中でも、もっとも気に入っているもののひとつを撮影した場所だ。青木のイラストには、我々の「小さな風景」写真と同じように切れ目のところに東屋としての架構が見つけられるが、それ以外にも鯉のぼりの竿や物干し竿などが描き込まれており、昔から堤防を頼りに住民のための居場所がつくられていたことがわかる。堤防を設計した土木エンジニアはこんな使われ方を想定していたのだろうか。近代的な堤防であっても、多くの人の手と機転が組み合わさりながら、地域の生活文化の一角を担う存在へと成長している。

駅そばに見る、多様な主体による多様なふるまい

 こちらは岩手県の一ノ関駅の様子である。その後の改装で、今はこの姿ではなくなっている。駅そばを食べるための大きなカウンターが待合室に鎮座しているのが印象的であった。東日本大震災の後の被災地通いの中、途中に寄るこの待合室を定点的に観察していたのだが、このカウンターで実際に駅そばを食べている人はどちらかというと少なく、ほとんどの場合、列車の待ち時間に宿題をすませようとする高校生や、昼間からお酒をのんでいるおじさん達に占められていた。そば屋を仕切るおばちゃんも食事以外の使われ方に関して気にする様子がない。No.10で考察したような、「エキ」=「未目的」空間ということを地でいっているような、多様な主体による多様なふるまいやしぐさがあることが前提となった場所であった。

 そして、カウンターはというと、そうした自由な振る舞いを予測しているかのように、ロの字の真ん中にはちょっとした立ち上がりと、そこに観葉植物とチラシが置かれていて、向かい合わせの人が気にならないような工夫が施されている。おじさん軍団と女子高生たちが同居している様子も何度か目撃したが、そんなことが当たり前に見えるのも、このこまやかなディテールのなせる技といえる。一関駅の実情を知り尽くした人が設計したのだろうし、また、その思いに応えるかのように人々が使いこなしている。これは、皆で使う場所を、皆でつくりだしている現場といえるのではないか。

 こんな風に「小さな風景」をひとつひとつ解説するのは楽しい作業であるが、紙幅(ネットだけど)もあるので、一旦ここでまとめておこう。

共通点は「なにかしらの資源が発見されていること」

 こうした少ない事例であっても、「つくる」ことは多様な次元にあった。最初のメンテナンスの現場のように使う人が直接的につくる場合もあれば、もんぜんぷら座や一ノ関駅のように、気の利いた設えを市民が自在に使いこなすことで、間接的に空間をつくりに参加するという場合もある。また、共有の姿もいろいろであることがわかる。実際の共有の場であることもあれば、久礼湾のように、つくることとつかうことの関係性を保存し時代を超えてその作法が引き継がれていくようなケースもある。つまり、使う/つくることの共有と連鎖の組み合わせは、それぞれが本当にユニークなものとして現れるのだ。

 そして、個別のユニークさを超えて共通していることは、そこになにかしらの資源が発見されているということである。メンテナンスの現場では風通しのよさと壁の下地。もんぜんぷら座では中古の空間の気軽さ。また、久礼湾では堤防、一ノ関駅だと駅らしい要素のあつまりとそば屋の寛容さなどである。これらは、いわゆる資源といえるものでなくても、創造的なまなざしの中で「資源性」が発見されているものたちである。これらの事例を眺めていて面白いのは、ちょっとしたものが資源になり得ることを物語っていることだ。また、このささやかな資源を発見しているのが、プロもアマも大人も子供も関係ない、多元的な眼差しであるということだ。ここから、資源の発見には特別な専門性は必要なく、誰によっても可能であることがわかる。そこに「小さな風景」の開放性と可能性がある。

 私たちはこれからも、皆で空間と場所を発見し使いこなし続ける。その現場を追い続けていきたい。

乾久美子(いぬいくみこ):1969年大阪府生まれ。1992年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1996年イエール大学大学院建築学部修了。1996~2000年青木淳建築計画事務所勤務。2000年乾久美子建築設計事務所設立。現・横浜国立大学都市イノベーション学府・研究室 建築都市デザインコース(Y-GSA)教授。乾建築設計事務所のウェブサイトでは「小さな風景からの学び2」や漫画も掲載中。https://www.inuiuni.com/

※本連載は今回でいったん終了となりますが、フラリと“おまけ”が載るかもしれないので、気長にお待ちください。これまでのまとめはこちら↓。

(イラスト:乾久美子)