「蔵春閣」が3度目の移築で大倉喜八郎の故郷へ、新発田市の建築巡りに新顔加わる

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 2020年から新潟県新発田市東公園内への移築工事が進められてきた大倉喜八郎別邸「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」が、2023年4月29日(土)に開館する。移築された蔵春閣をひと足先に見てきた。1912年竣工の木造2階建て、唐破風入母屋造りの風格のある建築だ。

新発田市東公園に移築された「蔵春閣」(写真:特記以外は宮沢洋)

 蔵春閣と聞いて、「あれか」と分かった人は建築史の研究者か、大成建設の大ベテランくらいだろう。筆者(宮沢)も、大成建設の人から話を聞くまで知らなかった。

 まずは、新発田市のサイトから開館のお知らせを引用する。

市内のあちこちにこんなポスターが貼られている

東公園に移築された大倉喜八郎別邸「蔵春閣」が開館します。
令和2年より移築工事を進めてきた大倉喜八郎別邸「蔵春閣」が令和5年4月29日(土曜日)に開館します。
同日には、オープニングイベントも開催されます。(新発田市サイト、2023年3月29日)

移築再生された蔵春閣の1階食堂

60年間は違う名前だった

 ここで補足1。大倉喜八郎(1837~1928年)は、明治45年(1912年)に蔵春閣を建設し、それまで蒐集していた美術工芸品や古建築の部材などを建物のあちこちに装飾として使った。建物は賓客の接待に使われ、渋沢栄一や孫文もここを訪れた。

食堂を仕切る襖。狩野探幽が溝口家(越後国新発田の大名家)の家紋「五階菱」を崩して霞の図柄にしたものといわれる
2階の広縁。床は大理石モザイクタイルのタイル画。竣工当初は右手の窓を開けると隅田川だった
2階の大広間
2階の月見台。漁師の網を思わせる手すりは、大倉喜八郎が考えたものという

 補足2。設計を担当したのは大成建設(当時は大倉組)の今村吉之助、現場監督を務めたのは山中彦三。設計者の今村吉之助は、明治22年に皇居内に竣工した明治宮殿・皇后常御殿(戦災で焼失)の専任製図担当者であったという記録が残る。つまり、宮内省を経て、明治宮殿の施工者であった大倉土木(大倉組、後の大成建設)に入社したと考えられる。明治宮殿と蔵春閣の写真を見比べると、確かに雰囲気が似ている。今村のプロフィルは今回の移築に際しての調査で明らかになったもので、大成建設社内でもほとんど知られていないという。大成建設設計本部の皆さんは、これを機に大先輩である今村吉之助の名を覚えてほしい。

当初の外観写真と大倉喜八郎本人が書いた「蔵春閣建築瑣談(さだん)」が掲載された「建築工藝叢誌」第1巻第6冊(1912年7月刊 建築工芸協会)

 補足3。大倉喜八郎が蔵春閣を建てたのは東京・向島の隅田川沿い(上の写真)だったが、戦後の1959年(昭和34年)に千葉県船橋市の船橋ヘルスセンター内に移築された。そこで20年ほど中華料理店「長安殿」として使用された後、1978年(昭和53年)に200mほど曳家(ひきや)され、三井ガーデンホテルの宴会場「喜翁閣」(きおうかく)として使用された。喜翁閣は2006年に閉鎖となり、2011年にはホテル自体が営業を終了する。

移築前、千葉県船橋市にあった頃の外観(写真:大成建設)

 つまり、約60年間は名前が変わっていたので、「蔵春閣」と聞いてピンと来る人はほぼいないのである。3度目の移築の経緯については、再び新発田市のサイトに戻る。

平成29年 (公財)大倉文化財団から新発田市に寄贈が決定
平成31年 JR新発田駅前「東公園」を蔵春閣移築場所として決定
令和2年 蔵春閣本体移築工事着工
令和4年 附帯施設等整備工事着工
令和5年 蔵春閣開館

 大倉文化財団は、大倉喜八郎が創立した美術館「大倉集古館」を運営する財団だ。1917に開館した日本で最初の私立美術館で、今も東京・虎ノ門の「The Okura Tokyo」に隣にある。今回の移築は、三井ガーデンホテル営業終了後、大倉文化財団が建物の部材を譲り受け(三井不動産より寄贈)、大成建設とともに移築先を探して、移築工事後に新発田市に寄贈したものだ。新発田市は大倉の出身地で、移築場所である東公園もかつて大倉が市に寄贈したものだ。

積雪地への移築にBIMを駆使

 移築工事は簡単ではなかった。船橋市と新発田市では積雪量が全く違う。一般公開を考えていたので、積雪地の公共建築として安全なレベルまで構造強度を高めなければならない。一方で、将来、文化財に指定されることも想定すると、安易な現状変更はできない。

 改修設計の中心になったのは、大成建設設計本部先端デザイン部伝統・保存・木質建築の松尾浩樹部長(担当)と、同部伝統・保存・木質建築推進室の中谷扶美子アーキテクト。

左が中谷扶美子氏、右が松尾浩樹氏

 ぱっと見にはどこに補強部材が加えられたのか全く分からない。大きなところでは、開口部の戸袋部分。補強しても、雨戸などの開け閉めをしなければならないので、耐力に影響のないぎりぎりの大きさの穴が空いている。

耐力壁の位置図(資料:大成建設)

 大きな補強のもう1つは、屋根の構造材の隙間。中谷氏は、「屋根と庇が雪に耐えられるようにするため、既存の木組みの間を縫うように鉄骨の桔木(はねぎ)を入れるのに苦労した」と語る。 桔木(はねぎ) というのは、長く突き出る水平部材を支えるための水平部材のことだ。

赤い部分が新たに加えた鉄骨の桔木(資料:大成建設)

 鉄骨の桔木は、既存の木材の間を縫って通さなければならないため、1本1本形が異なる。設計段階ではBIMで3次元形状の検討を繰り返した。中谷氏は、「現場では鉄骨の形が変えられないので、全部が収まるまでヒヤヒヤだった」と振り返る。

BIMでの検討図(資料:大成建設)
鉄骨の桔木を加える様子 (資料:大成建設)

 一方の松尾氏は、「苦労したところを挙げればきりがないが、一番感激したのは、船橋時代には全く見えなかった1階床の寄せ木張りが見えるようになったこと」。移築前には全面にカーペットが接着されていたが、それを除去し、洗浄した。場所によって張り方が多様だ。「今村吉之助という人の繊細さやこだわりがよく分かる」と松尾氏。

1階床の修復作業の様子(写真:大成建設)
施工後の床

 蔵春閣のある東公園はJR新発田駅から徒歩数分と行きやすい。新発田市は当面、この建物を無料公開する予定だ。公開時間などの詳細は市のサイトで確認してほしい。

周辺には有名建築がこんなに…

 ところで新発田市まで来たら、建築好きはこれら↓の建築も見てほしい。

 まずは、蔵春閣から15分ほど北西に歩いて「新発田市庁舎」へ(新発田市中央町3-3-3)。設計: aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所、施工:大成・新発田・伊藤 特定共同企業体、竣工:2016年。

 続いて200mほど北に歩き、「日本カトリック教団カトリック新発田教会」(新発田市中央町1-7-7)へ。設計:アントニン・レーモンド、竣工:1966年。

(写真:大成建設)

 さらに西に200mほど歩いて「新発田市民文化会館・公民館」(新潟県新発田市中央町11-7)へ。設計:内井昭蔵、竣工:1980年。

 この建物と渡り廊下でつながる「蕗谷虹児(ふきやこうじ)記念館」へ。同じく内井昭蔵の設計。竣工:1987年。

 駐車場を挟んで南側に立つ「新発田市立図書館」(1984年竣工)も内井の設計で、この一角は内井昭蔵トライアングルとなっている。

右手前が「新発田市立図書館」

 蔵春閣の移築で新発田市の建築巡りがさらに楽しくなりそうだ。(宮沢洋)