リレー連載「海外4都・建築見どころ案内」:ブラジル・リオ×藤井勇人氏その3、リオの巨大工場を無理ないコンバージョンでアートの中心地に

Pocket

藤井勇人氏担当の最後となる今回は、ブラジル・リオデジャネイロで最もホットなアートの中心地を取材してもらった。湾岸再開発エリアに立つかつての工場を、時間をかけて徐々にコンバージョンしている「ベリンギ工場」だ。アーティストやデザイナー、建築家などがアトリエを構え、家具職人の工場、古着屋やビストロも並ぶ。(ここまでBUNGA NET編集部)

 ブラジル最終回となる今回は、私が住むリオデジャネイロ(リオ)にある施設を紹介しよう。リオと言えば、年に1回開催され世界中から100万人もの人が訪れるカルナバウ(カーニバル)が世界的に有名だが、オーストラリア・シドニー、イタリア・ナポリと並んで世界三大美港の一つとされる風光明媚(めいび)な街でもある。2012年にはその美しい景観が評価され、世界遺産に登録されている。また、リオ市はサンパウロ市に次ぐブラジル第2の都市で、600万人を超える人口を抱え、1960年にブラジリアに遷都するまではブラジルの首都でもあった。

 人類最後の巨匠建築家といわれたブラジル人建築家、オスカー・ニーマイヤー氏(2012年に104歳で死去)はここリオ出身で、彼の幾何学的に説明できないような美しい曲線が生まれた原点は、美しいリオの山々がつくり出す稜線とも、ビーチにいる女性の体の曲線美ともいわれている(実際に本人もそう言っていて、晩年までビーチにいる女性のスケッチを、葉巻をふかしながら描き続けていた)。

 その美しい稜線にリズムを合わせるかのようにリオは音楽の街でもある。日本中を席巻したBossa Nova(ボサノバ)音楽も、ここリオに住む裕福な家庭で育ったアントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ジ・モラエスらのミュージシャンによって生み出されたものである。一方でファヴェーラ(スラム)のストリートから生まれたFunk Carioca(ファンキ・カリオカ)は、打ち込み系の音にラップをのせたもので、街を歩くと至る所からズーチャッチャ、ズーチャッチャというビートが聞こえてくる。

 今でこそブラジル文化の多様性は国内各地で再評価されているが、20世紀終盤まで文化の集積地がリオであったことに異論はないだろう。

湾岸再開発エリアの工場をコンバージョンし続ける「Fábrica BHERING(ベリンギ工場)」

今回紹介するFábrica BHERING(ベリンギ工場)。ありのままという表現がふさわしい、良いエイジングをした建物である(写真:藤井勇人)

 そんなリオのセントロ(中心街)からさほど離れていないPorto Maravilha(その名も、素晴らしい港)という湾岸再開発エリアの外れに、一つの巨大な建物が存在する。それが今回紹介するFábrica BHERING(ベリンギ工場)だ。

 倉庫が立ち並ぶ周囲の風景からは全く想像できないが、この場所は、現在リオで最も活気に満ちたアートの中心地の一つとなっている。アーティスト、デザイナー、建築家やメークアーティストたちのアトリエや、フォトグラファーのスタジオ、家具職人の工場、さらに古着屋やビストロまで、多様な人々が共同でこの工場の中で活動している。8万9000m2の敷地の中に複数の建物が存在し、合計で1万6000m2の延床面積の中に85組に及ぶアトリエや事務所、工場、店舗がある。

一つの建物というよりも、複数の建物によって成り立っている一つのエリアといった方が無難だろう(資料:Fábrica BHERING)

 リオ市内にも様々なカルチャーセンターが存在し、私自身も当初ここはカルチャーセンターだと思っていた。しかし、オーナーの一人であるRaphael Barreto(ハファエル・バヘット)によると、ここFábrica BHERINGはカルチャーセンターではなく、あくまで”Produção Cultural Carioca(カリオカ文化を精製する場所)”ということだった。カリオカとはリオ出身の人やリオ製のもののことを言うが、この施設はまさに地元のカルチャーを日々つくり出しているホットスポットだというのだ。

 文化を精製する場所とは何とも大きく出たなと思ってしまったが、オーナー自身がそこまでこの施設に思いを込めているのはなぜなのか、まずはこの建物の歴史から振り返ってみることにしよう。

 そもそもFábrica BHERING(ベリンギ工場)はこの地にあったのではなく、リオ市内の別の場所にあった。1880年にドイツ移民の子孫であるJosé Ribeiro Bhering(ジョゼ・ヒベイロ・ベリンギ)によってつくられたチョコレートとコーヒーの焙煎&粉砕会社がBHERING(ベリンギ)という名前の始まりだ。BHERING社は間もなくブラジルの王族にチョコレートを献上するようになったが、創設者が亡くなると会社は別のオーナーへ渡ることに。しかし、遺族の意向によりBHERINGの名前はそのまま継承され、以降30年に渡りコーヒー、紅茶、スパイス、パスタ、ソース、ココア製品などをはじめ300以上の商品を取り扱うようになり、国内有数の食品企業へ成長した。

 中でも主力商品であったCafé Globo(カフェ・グローボ)は、“Bom até última gota(最後の一滴まで美味しい)”という分かりやすいコピーと斬新なマーケティング手法で国内トップのインスタントコーヒー商品にまで上り詰めた。今でも週末の晴れた日には、広告の横断幕を引いたセスナ機がビーチの上空を行き来しているが、あのアイデアは同社が始めたものだという。

 1930年代に入り、それまでBHERING社の本社と倉庫があったリオのセントロが手狭になってきたこともあり、新しい拠点を探ることになった。経営陣がチョコレートの精製機械の買い付けのためにドイツのハンブルクにある破綻して売却先を探していたチョコレート工場を訪れた際、彼らの強い興味を引いたのは巨大な機械ではなく、その機械が置かれていた6階建ての鉄骨造の工場そのものであった。経営陣らは同様の建物規模と床荷重を確保するために鉄筋コンクリート造で新築する場合のコストを比較し、売りに出されていた鉄骨造の建物を解体し、船でドイツからリオまで運んで再建する方が安くあがると結論付け、建物ごと購入することを出張中に決定したというから驚きである。今でさえブラジル国内で鉄骨造は他の構造よりも3割程度高くつく。90年以上前のことを考えれば、彼らの判断は決して誤ったものではなかっただろう。

各部材がハンブルクのチョコレート工場から解体されて、船でリオまで運ばれてきたことを想像すると感慨深い(写真:藤井勇人)

古い工場がアーティストのアトリエなどへ変貌する海外事例を参照

 ドイツから1カ月以上の長い船旅によって運ばれてきた部材を再度組み直し、遂に現在の場所にベリンギ工場が立ち上がったのである。重量物にも耐えられる鉄骨造の建物を手に入れたBHERING社は、当時世界に2台しかない24時間フル稼働の巨大コーヒー焙煎機を導入し、売り上げも伸ばしていった。しかし、そんな矢先に起こった2度の世界大戦が大きな痛手となり、さらに戦後多国籍メーカーの進出により、徐々に競争力を失い、ついに1974年、それまでオーナーであったマットス家は現オーナーでブラジルインスタントコーヒー社を経営するGrupo Barreto(バヘット・グループ)へ売却することになった。

 売却後、バヘット・グループは主力商品であったCafé Globoに注力し、ロシアや中国、キューバをはじめ世界各国へ輸出し、いくつもの賞を受賞するなど世界的に評価される商品に成長させ、1980年のモスクワ・オリンピックではオフィシャルコーヒーとして世界中の人の目に留まることとなった。しかしながら、コーヒー以外の他の商品の売り上げが伸びず、一時期は国内外の学校向けに給食となる食料を缶詰めにして約4000万人の児童や生徒に食料を提供する新しい事業なども行っていたが、ついに創立125年後の2005年、BHERING社は食品メーカーの工場としての機能を終了せざるを得なくなった。しかし、ここからが新生BHERING工場の新たな船出となったのである。

メインエントランス。常に開かれており、周囲の住民がランチを食べに来たり、観光客が訪ねてきたり様々な人々が行き来している(写真:藤井勇人)

 当時のオーナーであったGrupo Barreto(バヘット・グループ)の代表、Ruy Barreto(フイ・バヘット)は、ドイツ・ベルリンや英ロンドン、フランス・パリなどを訪れ、古い工場がアーティストたちのアトリエやスタジオへ変貌を遂げている例を目の当たりにし、リオでもそれを実現させようと発起する。特に彼が強い影響を受けたのはベルリンにあるレッド・オクトーバーと言う複合施設で、チョコレート工場がバー、レストラン、ギャラリー、そしてファッション・ブランドのアトリエなどが集まる施設にコンバージョンされた場所だという。

 彼は帰国すると、早速Bhering Estúdios(ベリンギ・スタジオ)とBhering Locação(ベリンギ不動産)という二つの部門を立ち上げた。家族からは絶対にうまくいかないだろうという批判を浴びた上での決行だったが、これが見事に映画監督やフォトグラファー、アーティストのニーズをつかみ、毎週のように撮影のロケ地として使用されることになった。また、国内の他の都市に比べて地価の高いリオでは、アーティストたちが広いスペースのアトリエを構えることが難しかったが、ここでは大きなスペースを破格で借りられるということで彼ら(彼女ら)の口コミが口コミを呼び、年々入居者が増えていった。

ベリンギ工場がロケ地として使用された映画のポスター群。Camila Morgado(カミラ・モルガド)主演の「Olga」やSelton Melo(セルトン・メロ)主演の「Meu Nome Não é Johnny」といった国内でヒットしたブラジル映画や、今を時めくブラジルR&B界のトップアーティストであるIza(イザ)の曲”Dona de Mim”のビデオクリップもここで収録されている

「ベリンギの一番の魅力は借り手同士の横のつながり」

 2005年に始まったBHERING社のテナント事業は順調に成長を続け、現在では85組の借り手がいるそうだが、事務局長のLuiz Felipe Lins(ルイス・フェリペ・リンス)曰く、一度テナントに入ると経済的な問題で退出する以外、ほとんど入れ替わりがないのが特徴だという。その人気はどこにあるのか、実際にテナントに入っている方々に話を聞いてみた。

 ベリンギに入居したのが13年前という古株メンバーのうちの一人が、書店を営むFelipe Varella(フェリペ・ヴァレラ)さん。彼はもともと市内で古書店を営んでいたが、経営難に陥り書店を閉店。古本の行き場について頭を悩ませていたところ、ベリンギのことを知り、当初は今の面積の半分程度のスペースを破格で借りて本屋を始めた。場所柄、個性的な本を求めにやって来るお客や、ネット販売が功を奏し、売り上げを伸ばし、新型コロナウイルス禍により、さらにオンラインでの売り上げが急増したという。フェリペさんはほぼ毎日朝から晩までこの書店で過ごしており、ベリンギのことは知り尽くしている。そんな彼によると、ここの一番の魅力は借り手同士の横のつながりだという。

 そもそもこの書店には同じ借り手であるアーティストやデザイナーがアイデアを探しに来るケースも多かったが、ランチをするレストランやカフェで意気投合して一緒にプロジェクトをやったりすることもよくあるとか。2012年、ベリンギ社の負債が原因で市役所によって建物全体が競売にかけられた際、投資会社に落札されたが、所有権をめぐる法的紛争で借り手同士が団結して工場が投資会社へ渡ることを阻止し、現在もその法的争いは続いているという。もはや借り手同士というよりは、志を同じくする同志というのがふさわしい関係なのだろう。

フェリペ氏は彼自身の結婚パーティもここで行ったという愛着ぷりだ(写真:Felipe Varella)

 鉄工アーティストとして20年以上の経験があるRoberto Romero(ホベルト・ホメーロ)さんは、ベリンギの5階にアトリエ兼ギャラリーを構えて7年になる。もともとはアルゼンチン出身でフランス・パリやレバノン・ベイルート、コロンビア・ボゴタなどでもアーティストとして活動をしていた国際派だ。様々な場所にアトリエを構えて制作活動を行ってきたホベルトさんによると、ベリンギ以上のワークスペースには出会わなかったという。賃料も魅力的だが、それ以上に同じような境遇のアーティストがたくさんいるため、色々な問題などをシェアしたり、一緒にプロジェクトをやったり、コラボレーションをする機会が格段に増えたという。さらに、鉄の溶接作業で出る煙が常に問題になるが、建物が非常に風通しの良い設計になっているため、全く問題にならないというメリットも上げてくれた。彼が今、地域活動として夢中になっているのはベリンギ近隣のサンバチームの衣装の制作だという。

 「ベリンギで働くメンバーで最も新しく入ったのが私よ」と言うÉrica De Rose Santos(エリカ・ジ・ホーザ・サントス)さんは、1階でカフェとレストランを経営している。以前は別の場所でスイーツ店を経営していたが、コロナ禍により、経営が悪化し閉店を余儀なくされ、賃料が安くデリバリー販売ができる場所を探していたという。ネットでベリンギを探し当て自らコンタクトして熱意を伝えて入居したのが3年前。コロナ禍でデリバリー販売から始め、今では毎日日替わりメニューが出るカフェレストランまで拡大し、週末には彼女プレゼンツでサンバやジャズ、ブルースなどのアーティストを迎えて野外ライブを行うなど、ベリンギに新たな息吹を与えている。

 「ベリンギにやって来る観光客や借り手の方々向けのランチだけではなく、シンプルな食堂店しか周囲にない地元の皆さんに、こんなにも食のバラエティーがあるのかということを知ってもらいたい」と話す。コミュニティーに開かれたレストランになるべく、エリカさんのアイデアは尽きることがない。

オーナーと入居者が協力、やりすぎないコンバージョンで少しずつ成長

 クリエイティブ精神とバイタリティーにあふれた借り手の方々へ半日インタビューをしただけで、この場所に独特なエネルギーが流れていて、それが複数集まってシナジーとなりポジティブな雰囲気をつくり出しているのを肌で感じることができた。

 現ベリンギ社オーナーであるハファエルの父親が参考にしたモスクワのレッド・オクトーバーをはじめ、英ロンドンのイーストロンドンや、米ニューヨークのチェルシーマーケットなど、かつての工場をアトリエや商業施設、オフィス、ホテルなどへコンバージョンさせた例は枚挙にいとまがない。しかしながら、このベリンギが独特なのは、州政府や行政機関のサポートが全くないまま、オーナーと入居者であるアーティストやデザイナー、フォトグラファー、飲食店経営者がアイデアを出し合ってマネタイズをしながら少しずつ成長してきた点にある。潤沢な資金がないからこそ、やりすぎない、手を加えすぎない、最小限の介入によるコンバージョンと言えるだろう。

映画やミュージックビデオの撮影ロケによく使われる多目的スペース(写真:藤井勇人)
雨漏りしたらそれを楽しもう。そういう精神でつくられているからこそ、この空間は居心地がいいのかもしれない(写真:藤井勇人)

 近年、歴史的な建築物を保存するだけでなく、現代社会に「適合(アダプティブ)」させ「再利用(リユース)」する建物のアダプティブリユースの考え方は世界中で注目されているが、大都市に行けばどことなく紋切り型なコンバージョンやリノベーションが多く見受けられる。機能のバリエーションが限られるのはさておき、過去の遺産をそっくりそのまま保存するために大量の資金を投入している、いわばやりすぎ感が否めない案件が多いと個人的に思うところである。潤沢な資金があるプロジェクトではもちろんそれでもいいが、一方でこのリオのベリンギのような、肩の力を抜いて資金ができたら少しずつ改善していくコンバージョンこそ、建物とユーザー、周辺のコミュニティーの関係性が時間をかけて成熟され、居心地の良い空間をともにつくっていく好例だと思う。

 ベリンギ事務局長のルイスは言う。「国や州政府からの支援はなく、期待も全くできない。であれば自分たちでどうにかするしかない。アップサイクリングの難しさはあったが、たくさんのアーティストやデザイナーなどの入居者たちによるアイデアと集合知、実行力によって今まで幾度となく困難を乗り越えてきた。このコミュニティーこそが現在のベリンギの魅力そのものだろう。

(3回目記事はここまで)

 3回連続でブラジル国内の注目建築やスポットを紹介させていただいた。1回目は、世界的な建築関連サイトで2023年住宅部門トップに輝いたベロ・オリゾンチのファヴェーラ(スラム)にある住宅、Casa no Pomar do Cafezal(ポマール・ド・カフェザルの家)。続いて2回目は、世界の巨匠ジャン・ヌーべルやフィリップ・スタルクらがサンパウロで手掛けた6つ星ホテル、ローズウッドホテルサンパウロを含む複合施設Cidade Matarazzo(シダーヂ・マタラーゾ)。そして最終回となる今回は、地元リオのやりすぎないコンバージョン案件、Fábrica BHERING(ベリンギ工場)である。

 ブラジルは様々な国が出自の移民によってつくられた、まだ建国200年そこそこの新しい国である。であるがゆえに、歴史のある国々に特有の古い物差し、ルールのようなものが存在しない。偏見や差別がないと言ったら嘘になるが、一般的に他者に対して寛容で、無関心ではなく、理解しようとしてくれる。どんな肌の色だろうが、髪型だろうが、体型だろうが、自分がいいと思ったものを素直に自己表現しているし、それを受け入れてくれる社会の度量の大きさがある国だと常々思う。

 今回選んだ3つの案件は、そんなブラジルの多様性、寛容性をパラメーターにして選んでみたが、改めて俯瞰(ふかん)してみると、地域や所得にかかわらず、ブラジル人の建築や空間に対する主体性がまさに反映された建築であることが再確認できた。主体的に建物や空間と接していき、その空間を生かし空間に生かされながら、個々人だけではなく皆で、社会全体で成長していこうとする活力を感じることができた。建築は人々にとって希望を与えるもの、そして建築や空間とコミュニティーは同列に語られるべきものであり、どちらかが良ければいいものが生まれるというわけではない、ということを彼らは改めて教えてくれた気がする。(藤井勇人)

〔Fábrica BHERING(ベリンギ工場)概要〕
所在地:R. Orestes, 28 – Santo Cristo, Rio de Janeiro/RJ, CEP 20220-070 Brazil
設計者:オリジナルは不明。コンバージョンは全入居者による設計施工
完成時期:未完成
行き方:リオのバスターミナルRodoviária Novo Rioから徒歩7分。人通りが少ない時間帯もあるので、UberからTaxiで行くことをお勧めします

藤井勇人(ふじいはやと)
隈研吾建築都市設計事務所ブラジル担当室長。多感な時期をリオ・デ・ジャネイロで過ごしたことからアンテナが地球の裏側ブラジルに。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、サンパウロ近郊の市役所職員としてスラム(ファヴェーラ)の住民組織と共に家づくりを学ぶ。帰国後、デザイン・建築設計事務所を経て2009年にブラジルへ移住。建設会社勤務時代に外務省の日本文化対外発信拠点ジャパン・ハウス サンパウロの立ち上げを行う。現在はリオにて、主にブラジル国内における小売業界の店舗開発などを推進する傍ら、ブラジル国内の大学での講演、ブラジル先住民の椅子や雑貨の輸出などカルチャー全般に関わる活動を行う。現行のブラジル国認定建築士唯一の日本人。ソーシャルニュースメディアNewsPicksプロピッカー
https://www. instagram.com/hayatobr

※本連載は月に1度、掲載の予定です。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: kaigai00-768x764-2.jpg
(写真:PAN-PROJECTS)