倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」15:竹山実、山下和正、相田武文~“野武士世代”の表層期の変化

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 では、「平和な時代の野武士達」が当時の建築界に与えた影響は、どのようなものだっただろうか。

山下和正「顔の家」(1974年)(写真:倉方俊輔)

 まず、前回に述べたように、その内容は1941年生まれの安藤忠雄や伊東豊雄を論じたものではない。扱われている建築家は、1937年生まれの相田武文から、1944年生まれの石井和紘まで幅広く、それは『新建築』の編集部が決定したものだった。そもそも月刊誌の企画であるだけに、若手建築家としての話題性はもちろんだが、たまたま当時における未掲載作品の有無などが、入るか入らないかを左右したことは十分に考えられる。

 槇文彦の姿勢は、このように決定的といえない7名の枠組みを受け入れ、全体として論じようというものだった。というのも、伊東豊雄については、富永譲と長谷川逸子の作品を訪れた後に「PMTビル」(1978年)を見に行ったことが記され、「3人は篠原スクールともいわれる」ことに触れているからである。また、安藤忠雄の名は「都市問題は他の人たちのすることとする風潮」に疑問を呈した部分で、そうでない人として象設計集団と併せて言及されている。毛綱毅曠の名も「永正寺」(1979年)と共に現れる。ただし、どの対象もそれ以上には論じていない。槇文彦が、若い世代に幅広い関心を抱いたこと、その上で、編集部に与えられた枠組みを超えた世代やスクールの区別を行わなかったことが分かる。

 翌月の月評も含め、「野武士の世代」という言い回しがすぐに登場したわけでないことは文献的に確かめられる。槇文彦の文章が当時どのように受け止められたかの総体を示すことは困難だが、すでに述べたように内容の中心は、建築家が行うことはまちまちで良い、言葉よりも実践、口より手である、といったものだった。さらに「野武士」が登場した場面を振り返ると、まず「独りたたずむ彼らの建物の姿」が意識に浮かび上がり、続いて、背後に「野武士の像」が見えるという順序だった。ここに見られる、建築は建築家そのものである、という鮮明なメッセージは、さらに下の世代の建築家の背中を押すことにもなっただろう。

「五期会世代」、「メタボリズム・グループ」、「アルキテクスト・グループ」

 槇文彦の「平和な時代の野武士達」が世代論ではないことを述べてきた。それは、まだどちらに行くか分からなかった1979年という時代を、むしろ適切に反映している。私たちは、間違えさせられたことを背から下ろして、より自由に、着実に、歴史を編むことができる。

 ただ、これは当時、世代論が影も形もなかったことを意味しない。同じ号の『新建築』の巻頭文として、建築史家の鈴木博之による「私的全体性の模索」が掲載されている(注4)。その中で「石山修武、石井和紘、六角鬼丈、毛綱毅曠の婆娑羅というグループ」に触れているが、これが世代的な意味合いを帯びていることは、同じ筆者による前月号の論考「毛綱毅曠・六角鬼丈・象設計集団・伊東豊雄—貧乏くじは君が引く」に目を通すことで、はっきりする(注5)。

 文頭から「五期会世代」、「メタボリズム・グループ」、「アルキテクスト・グループ」が時代順に語られ、「最近、さらに彼らの後の世代の建築家たちの間に、グループ結成というほど大げさでないにしても、何らかのまとまりが現われはじめたように見える」として紹介されるのが、先ほどの婆娑羅であり、「関西三奇人」(渡辺豊和、安藤忠雄、毛綱毅曠)であり、象設計集団らTeam Zoo、それに「エピステーメー派」(伊東豊雄、坂本一成、長谷川逸子、富永譲ら)である。こうした手続きの後に、毛綱毅曠、六角鬼丈、象設計集団、伊東豊雄が論じられている。

『都市住宅』1972年8月号「特集 ARCHITEXT EXTRA」

 「アルキテクスト・グループ」とそれ以後、という区別が明らかである。アルキテクスト・グループとは、1971年に『ARCHITEXT』という名の同人誌を発刊した東孝光、竹山実、鈴木恂,宮脇檀,相田武文を指す。最年長が東孝光で1933年生まれ、先ほど書いた順に生年が1年ずつ下って、最年少の相田武文が1937年生まれとなる。

 アルキテクスト・グループの性格としては、東孝光が後に解説した「千駄谷・原宿に在住する同世代建築家のグループ。同一の教条に縛られないグループ活動。」(注6)という表現が雰囲気を伝えているだろう。槇文彦もその一員だったメタボリズム・グループのように共通の理念を掲げ、都市問題の解決を射程に入れるのではない。例えば東孝光が「塔の家」(1966年)で有名であるように、住宅を主戦場としながら、近代建築の手法から、教条的にも映る普遍解ではなくて、新鮮で納得がいく特殊解としての作品を生み出すことによって、それぞれが建築家としての個性を認めさせていったのだった。

 グループの結成が偶発的であることも、アルキテクスト・グループの上の世代と異なる性格を示している。先の5人に、あと2人の建築家を加えることができる。やはり住宅作品から個性が知られていった山下和正と、アルキテクスト・グループ以前の相田武文らと「スペース30」という活動を共にしていた木島安史、ともに1937年生まれである。生年も建築界への登場の仕方も近いので、ここからは「アルキテクスト世代」として一緒に語っていきたい。

アルキテクスト世代の表層期における変化

 「平和な時代の野武士達」では、相田武文が論じられ、石井和紘も扱われていた。アルキテクスト世代とそれ以後とを、槇文彦の文章はまたいでいたことを再確認した上で、アルキテクスト世代のほうから、表層期(1977〜81年)の変化を見ていこう。

 建築の表層で有名になった建築家として真っ先に思い浮かぶのは、竹山実かもしれない。グラフィックデザイナーの粟津潔を起用して「一番館」(1970年)の外壁を大柄なストライプで彩り、さらにカラフルな「二番館」(1970年)の外観は、チャールズ・ジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』の表紙写真に使われて、海外でも知られるようになった。

竹山実「一番館・二番館」(1970年)(写真:倉方俊輔)

 これらの飲食店ビルは、窓を本質的に必要としない。したがって、外面は外面として、表現の媒体としてしまおう。そんな風に設計者は、外観は内部の反映であるべきとする従来の固定概念がつかみそこねていた領域を、建築家の力の発揮のしどころと捉え、建築と周辺環境を楽しくしたのだった。近代建築の教条主義を脱して、形が持つ力を駆使し、従来の建築家がすくい取れていなかった社会の需要に応える。そんなアルキテクスト世代に共通した性格が、よく現れた作品である。

 ただし、表層期に入ると、外面はそれほど率直な表現の舞台では無くなっていく。竹山実における外面が表面的で、両義的な存在に変化する様を確認したい。

竹山実+駒田知彦「渋谷109」(1978年)(写真:倉方俊輔)

 「渋谷109」(1978年)は、広告であふれる周辺環境の中、あえて幾何学的な形態をとった商業施設だ。外装の正方形のアルミパネルにはエンボス加工が施され、周囲の饒舌な表層に対する、寡黙な表層としての存在感を高めている。その結果、「渋谷109」と聞けば、建築に詳しくない人でも銀色のシリンダー型が思い浮かぶようになった。私はかつて本作を「最も成功を収めた戦後日本のアイコン建築」と呼んだ(注7)。そうした状況は、強烈な表現を求めるのでも、単一の記号的な意味を目指すのでもなく、厚みも意味も持たない表面でしかないことによって達成されている。

「中村記念病院」の表層は抽象性と素材性の間

 「中村記念病院」(1980年)も、白というシンプルな色をまとっている。内部の壁には彩度に変化をつけた何種類かの白を用い、そんなベースの上に青やオレンジ、緑や黄色といったアクセントカラーを加えて、患者や医師などのゾーンが直感的につかめるようにデザインされている。外壁には仕上げが異なる3種類の白タイルを貼り分け、「陽光で表面の効果を微妙に変化させること」を狙った(注8)。こうした「自然の現象のもたらす変化」こそが、この札幌の「土地特有な風景のコンテキストなのだ」と設計者は言う。「そうした風景を内部環境化し、内と外との意味を連続できないかと考えた」わけである。

竹山実「中村記念病院」(1980年)(写真:倉方俊輔)

 現在は外壁が更新されて、白色のパネル仕上げになっているが、この時期の竹山実が表層にコミュニケーションの可能性を託していたことは、変わらずに伝わってくる。白という色彩を、患者と医師が共に抱いている「病院らしさ」の最たるものとみなして継承しながら、その表面に、冷たい拒絶性ではなく、意味が見出されるのを待つ受容性を与えたのである。詳しく説明していこう。

 表面は基本的には表現ではなく、地になっている。白は、施された色を浮き立たせ、先ほど見たように、ゾーンの情報を共有させる。加えて、形の意味も浮かび上がらせる。この病院の内外には、半円形が多用されている。それらは柔らかな通俗性を醸し出す。設計者は、半円形を洋風建築が慣習化した「札幌の土着性のコード」だと説明したり、「脳の直喩」と呼んだりもする(注9)。この病院は、創設が明治時代にさかのぼる「中村脳神経外科病院」の建て替えなのである。

 いずれにしても、半円形の意味は確定しがたい。白色の中にふと連想が浮かび上がり、また白い地に帰っていくように設計されているからだ。それは先述のように自然の現象もおぼろげに映し出す。さらには「病院らしさ」という共通理解を都市に送り出している。

 どれか一つの意味に固定されてしまわないために、表層には揺らぐような存在感が与えられている。表面のテクスチャーを微妙に変化させるなどして、図と地の間を行き来する。それはエンボス加工されたアルミパネルを外装とした「渋谷109」と同様の思考である。

 「中村記念病院」の表層は、抽象性と素材性の間にあり、図とも地とも言い切れないことによって、聖典があるような世界と俗っぽい親しみやすさとを架け渡している。「渋谷109」と同じく、建築として過激な表現ではないかもしれない。しかし、それ以前の時期に切り開いた可能性を前進させ、饒舌でないことによって、受け手の語りかけを待つ建築が生まれている。こうしてアルキテクスト世代にも、表層期の存在が確認される。

機能を備え、表面的ではない「顔の家」

 では、山下和正におけるファサードはどうだろうか。「顔の家」(1974年)は文字通り、正面が顔の形をした家である。鉄筋コンクリート造3階建の1階が仕事場に使われ、口に見えるのは仕事場への入り口。鼻は2階の居室の換気口で、目は3階の窓となっている。

 同じ時期の設計作に「フロム・ファーストビル」(1975年)がある。1976年の日本建築学会賞(作品)を受賞し、DOCOMOMO Japanの選定作品にもなっている。こちらはモダニズムの考え方を真面目に前進させ、「顔の家」は茶化しているかのようである。

山下和正「フロム・ファーストビル」(1975年)(写真:倉方俊輔)

 ただし、立体の組み合わせで、かたまりをつくる手法では通じ合っている。積み上げた一体感のある幾何学な形態への好みを、コンクリートブロック造の「北村邸」(1968年)などを通して、1960年代後半に熟成させていったのが山下和正である。その上で、若いグラフィックデザイナーだったクライアントの「〈何か目立つ家〉にしてほしいという希望」(注10)を受け止めて「顔の家」が誕生した。

 形の持つ力を柔軟に発揮しているのが、アルキテクスト世代らしい。その顔は立体的な造形で、機能を備えており、表面的ではない。いずれも表層期以前の性格だ。このように「顔の家」も、時代の中に位置づけられる作品なのである。

「ペガサスビル」は控えめな「顔のバルコニー」

山下和正「ケゼットハウス」(1978年)(写真:倉方俊輔)

 表層期の「ケゼットハウス」(1978年)を見てみよう。これも一体感を感じさせる作品だが、造形の焦点が立体な彫り込みから、浮遊する表層に移行しているのが分かる。設計者はこれを「外皮としての建築」と呼び、その「独自の表現が必要となる」として、外面を黒いタイルで統一した(注11)。階段室の内側は黄色のタイルで覆った。スリット状の開口部を介して、どちらも表に感じられる二つの空間が隣り合っている。渋谷の小さな雑居ビルとして内部空間の設計が自分の手を離れる制約を逆手に取って、表層に複数の世界の創出を託したのだ。

山下和正「ペガサスビル」(1979年)(写真:倉方俊輔)

 「ペガサスビル」(1979年)の表層は、さらに全体から遊離している。一番の特徴は「顔のバルコニー」である。5階のバルコニーが複雑な外形線を描いている。施主であるチーフコンサルタントの横顔の形だという。設計者は、ビルの機能が「建主のチーフを中心に展開し、すべての活動がその強いディクテーターシップのもとにコントロールされている」ことを「象徴的にこのビルの表現の要素として加えたいと考え」たと解説している(注12)。

 とはいえ、表現は控えめだ。顔のバルコニーも他の外壁と同じタイル仕上げで、面としても連続している。定規とコンパスで描ける形に変換されているので、2階バルコニーの波打つ曲面と大差がなくも見える。

 そこに設計者の狙いがあるだろう。3つの点が集まっただけで人の顔に見えてくるのが人間だから、抽象的に思える面が横顔と知れば、他の形にも意味を探すかもしれない。2階も5階もバルコニーが付加的であることを隠していないことは、同じ仕上げの他の面も、それほど信用させなくするだろう。つまり、これも単なる表面であって、その向こうは空いているのかもしれない。外壁を構造と無関係のデザインだと思わせる。

 現実には、これも「ケゼットハウス」と同様、厳しい要求と法的条件がせめぎ合って生まれた都市的な建築であり、実際の壁の向こうには機能がぎっしり詰まっている。救いは表面にある。厚みがないことで両義的な連想を生み、虚実をとりまぜる存在が、がんじがらめの窮屈さから逃れさせている。

 その向こう、へと連れて行ってくれるのが表層なのだ。これもまた記号的な意味を一方的に伝えるものでなければ、派手な表現でもなく、まして歴史的なモチーフの加飾でもないことを確認しておきたい。山下和正もこの時期に、表層への関心を増していったのである。

サイコロを「問題」にする相田武文

 外観という不思議な存在を問題にしたのが、アルキテクスト世代の中でも、とりわけ相田武文だった。「サイコロの主題による家」(1973年)は、正六面体に1から6の目が開いた住宅である。「6」は傾斜地から立方体を浮かせたピロティの柱を支え、「1」が天窓、「2」から「5」が各立面の窓であり、その配置が間取りに由来しないのは明らかだ。

 外観は、立派そうな顔を都市に向けるのが建築だとされていた時代とは異なり、内部の反映であるべきと近代人は言った。機能の結果に過ぎないと。けれど、それは存在する。しかも「主題」に見えてしまう。モダニズムの多くの巨匠たちにしても、そうした外観の効果を利用しているではないか。でなければ、メディアを通じて、あれほどモダニズムが世界を席巻しただろうか。

 モダニズムが否定されたとしても、相変わらず、外観の不思議さは残っている。外観を否定するのでも、それを表現の舞台にするのでもなく、問題にするのが相田武文の流儀である。「サイコロの主題」というよりも「サイコロ問題」。たまたまサイコロというものがすでに存在しているから、幾何学形がサイコロに見えてしまうのだ。

そして「積木の家」シリーズへ

 1984年の「積木の家Ⅹ」まで続く「積木の家」シリーズも、それと同じかもしれない。表層期に完成したⅠ〜Ⅲは、外観という不思議な存在を、表層から捉え返していて、相田武文のそれ以前とそれ以後を接続するものとなっている。

 最初に実現した「積木の家Ⅰ(防府歯科医院)」(1979年)は、外観と内部空間の対応が割に明瞭だ。積木というのも、そう言われればそう見えるといった程度で、細かなピースが積み重ねられた印象は受けない。

相田武文「積木の家Ⅱ」(1979年)(提供:相田土居設計)

 続く「積木の家Ⅱ」(1979年)も同様だが、こちらは目地の処理、素材の使い分けに表面的な配慮がなされている。1階が喫茶店、2〜3階が貸事務所、4〜5階が住居という複合ビルで、箱型に近い形が前提になることが、空間の構成から外観へと、設計者の関心を揺り戻させたのかもしれない。「ここでの試みは、『積木』が内部、外部ともに同一の表現を与えるのではなく、『表面』の問題として積木が語れるかということであった。」と、表面が意識化された端緒として後に語られている(注13)。

相田武文「積木の家Ⅲ」(1981年)(提供:相田土居設計)

 さらに「積木の家Ⅲ」(1981年)で、細かなピースが積み重ねられた印象へと踏み出した。それを成り立たせているのは、施された目地、アクセントとして配した鮮やかな着色、それに全ピースのうち25%を乱数表に従って灰色にするといった外面の処理である(注14)。インテリアにも同種の手法が用いられ、前後にズレていない平滑な面であっても、積木が重ねられているかのように見せている。

 これは「積木の家」シリーズの中で最も表層的な作品であり、ほぼ表面が「積木の家」を成立させている。そうすることに、機能的な背景はない。加えて、乱数表の導入に見られるように、形の隅々まで建築家の美学で決定される表現になることからも逃れようとしている。

すれ違うコミュニケーションを表層に託す

 相田武文が新たに主題とした「積木」は、いろいろと無根拠であるわけだが、それを「批評的」に種明かしするような仕草さえも隠蔽して、内外ともに「積木の家」であることが徹底されている。連載の第11回では、磯崎新の「神岡町役場」(1978年)を「ほころびなく突き通された嘘」と呼んだ。形態は異なるが、同じ形容が「積木の家Ⅲ」に対しても適切だろう。連載の第3・4回で扱った、伊東豊雄の言う「表面のみの世界」である。

 徹底された表面は、その奥を垣間見せないことによって、いま現実とされているものを離れ、とてもいいことやとても悪いことを想像させるものだ。いいことは、例えば、親しみやすさである。一般の家よりも目立つとしても、積木を見て悪く思う人はいないだろう。しかめっ面した従来の建築像を離れて、分かる喜びを都市に送り出している。

 悪いこととは、例えば、三角屋根のお家のおもちゃであることが、周辺の真面目な家屋を茶化しているように受け取られるだろうことである。なんでもつくれるようで、決まったピースの組み換えに過ぎない。当時勢力を拡大していたハウスメーカーの住宅への当てこすりと見る人も出てくるかもしれない。

 もっと悪いことに、積木は崩せるから積木なのである。家が見た目ほどには安定しておらず、ピースを組んだ仮の姿であることを、表面は訴えかけてくる。家庭の崩壊を実体験をもとに綴った、穂積隆信『積木くずし』の出版が1982年で、ベストセラーとなってドラマ化されたのはその翌年なので、そんな社会の潮流を後追いして「積木」が選択されたわけではない。ただ、「積木の家Ⅲ」の完成時に設計者は「積木で積み上げていく喜びとそれが崩れ去る瞬間の面白さ、それは相当考えていた」(注15)と語っているから、この両義的な意味が、表面に与えられていたことは確かだ。

 良い連想も、悪い連想も、コミュニケーションの一環といえる。それは機能を提供するだけで何も語らない建築とは異なる。弁舌に振るって、記号的な意味を一方的に理解させようというものでもない。浮遊し、一義的ではなく、すれ違うコミュニケーションが表層に託されたのが、この時期なのである。

伊藤ていじは相田武文を「野武士」と表現

 ところで、1979年の「平和な時代の野武士達」では「積木の家Ⅰ(防府歯科医院)」と「積木の家Ⅱ」が採り上げられていた。槇文彦が2作品とも訪れたのは相田武文のみであり、記述に割いている文字数も最も多い。

 執筆者の脳裏に、なぜ「野武士」という言葉が浮かんだかは謎なのだが、その5年前、相田武文の作品に対して、同じくらい唐突に「野武士」という単語が使われた事実は指摘できる。

 建築史家の伊藤ていじは、相田武文の「PL学園幼稚園」(1973年)を訪れ、スマートな宮脇檀とは違うとして、次のように評した。

 「泥くさいという言葉は、ある程度適用できる。裸馬にまたがって大漁旗を振りかざしながら原野を突進する野武士にとって、正直なところそんなことはどうだってよいのである。そんなことはそう気にしなくたって、この園舎はサマになる原理と構造が貫いているのである。」(注16)

アルキテクスト・グループとそれ以後

 槇文彦は「平和な時代の野武士達」の中で、1975年の篠原一男と磯崎新の言葉を引いている。執筆対象の建築家を調べていて、その前年に雑誌発表されたこの文章を読んだのかどうか。「野武士」という言葉は先に論じたように必ずしも論旨に最適でなかったが、それは印象的なフレーズが無意識に沈殿したことによるものなのか、それは分からない。

 けれど、現在「野武士の世代」とみなされている1941年生まれではなく、アルキテクスト世代に対する印象が「野武士」という形容を生んだ可能性は残るのだ。

 とはいえ、伊藤ていじが評した相田武文ら「野武士」たちは、もはや反逆のアヴァンギャルドというより、槇文彦に従って言えば「芸」を磨く段階に入ったのかもしれない。表層はその際に、より穏便でありながら複雑で、都会的な洗練を各人にもたらした。そんな傾向は共通させながら、各人の作風をより際立たせていった。

 すなわち、アルキテクストにも表層期が見られる。その内容としては、表層の建築をスタートさせたのではなくて、前の時代に打ち出した作風が表層化された、ということになる。

 とすれば、アルキテクスト世代とそれ以後、という区別も一理あるかもしれない。それ以後の世代は表層期が、打ち出しの時期なのである。したがって、表層と作風の確立とが深く関わり合っていたことを、すでに1941年生まれの長谷川逸子や伊東豊雄に関して論じた。その他の建築家については、どうなのだろうか?

注5:鈴木博之「フロッタージュ・現代建築の構図-8 毛綱毅曠・六角鬼丈・象設計集団・伊東豊雄—貧乏くじは君が引く」(『新建築』1979年9月号、新建築社)249〜253頁
注6:「『底流』の記録—戦後建築史に浮沈したグループ活動メモ」(『建築文化』1988年6月号、彰国社)191頁
注7:倉方俊輔『ドコノモン』(日経BP社、2011年)22頁
注8:竹山実「都市と建築の言葉—『中村記念病院』におけるイメージの地形」(『建築文化』1981年7月号、彰国社)94頁
注9:竹山実「機能と形態」(『新建築』1981年7月号、新建築社)163頁
注10:山下和正「顔の家」(『別冊都市住宅 住宅第8集』1974年12月号、鹿島出版会)94頁
注11:山下和正「ケゼットハウス」(『新建築』1978年10月号、新建築社)212頁
注12:山下和正「混成的建築—ペガサスビル設計メモ」(『新建築』1979年6月号、新建築社)184頁
注13:相田武文「遊戯性、積木、そして…」(『新建築住宅特集』1985年5月号、新建築社)38頁
注14:相田武文「遊戯から」(『新建築』1981年8月号、新建築社)226頁
注15:相田武文・石井和紘「対談 建築という名のダイス 相田武文の建築—とくに〈積木の家〉シリーズをめぐって」(『建築文化』1981年7月号、彰国社)46頁
注16:伊藤ていじ「〈PL学園幼稚園〉を見て」(『建築文化』1974年1月号、彰国社)113頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)