日曜コラム洋々亭53:「事件」より「継続」、磯崎新がくまもとアートポリスで選択した実験の正しさ

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 KAP(くまもとアートポリス)に磯崎自身が設計した建築は1つもないが、KAP自体が磯崎の代表作と言ってよいのではないか──。

 日経アーキテクチュア2023年2月23日号の特集「闘争と矛盾の磯崎新」で、くまもとアートポリスにおける磯崎新氏の功績について取材した際、記事の結びにそう書いた。半年たって、あらためて熊本県内のいくつかの建築を見てまわり、その思いを強くした。

 1つはくまもとアートポリス対象の災害復興関連施設だ。7月15日にオープンした「熊本地震震災ミュージアム KIOKU」(設計:o+h、産紘設計)はすでにリポートしたとおり(こちらの記事)、この種の災害資料館としては新たな方向性を示す注目作だ。

「熊本地震震災ミュージアム KIOKU」(写真:宮沢洋、以下も)

 7月15日に全線開通した南阿蘇鉄道の「高森駅」も、くまもとアートポリス事業。設計は公募型プロポーザルで選ばれたヌーブ(太田浩史代表)が担当した。

南阿蘇鉄道の「高森駅」

 天候の関係で見に行くことができなかったが、人吉市の大工町などに今春、乾久美子氏の設計による4つの「みんなの家(公民館型)」が完成した。2020年の豪雨災害の復興施設だ(写真を見たい方はこちら)。また、八代市には、柳澤潤氏が設計した「みんなの家(公民館型)」が2件計画され、うち1件が竣工している。

 どれも、くまもとアートポリスという枠組みがなかったら、どこにでもあるような無難な施設がつくられていただろう。

非くまもとアートポリス建築のレベルの高さ

 もう1つは、くまもとアートポリス事業ではない建築、特に公共関連施設のレベルの高さだ。

 例えば、熊本城天守閣に至るまでの「熊本城特別見学通路」は素晴らしい。熊本市が熊本城の復旧工事期間のために整備した空中回廊で、全長約350m。設計は日本設計。2020年にオープンした。以前の地上見学ルートよりも景色がいい。石垣などの修復作業の様子が間近で見えるのも面白い。そして、施設自体がかっこいい。

 熊本市とJR九州が整備を進めてきたJR熊本駅白川口(東口)の駅前広場も必見だ。2021年春に駅前の商業施設「アミュプラザくまもと」がグランドオープンし、全体が整った。

 先陣を切って2019年3月に完成した新駅舎のデザインは安藤忠雄氏。外壁は、熊本城の石垣の「武者返し」をイメージしたもの。パースで見ていたときにはどうなんだろうと心配していたが、出来上がってみると「さすが安藤さん!」と思わせるシャープな仕上がり。 

 2021年3月にオープンした新駅前広場は、シンボル的な存在だった西沢立衛氏設計の“しゃもじ形庇”(JR駅と路面電車の乗り場をつないでいた)がなくなり、同じく西沢氏のデザイン監修による“リボン状庇”で複数の動線が可視化された。

 西沢氏の庇に目が行くが、駅前ビルの前の余白のゆったり感が心地いい。

 駅前ビルの設計は日建設計。吹き抜けの瀧がすごい。これも1つの公共空間。

 日本の主要駅の駅前空間で、こんなにつくり手の“知性”を感じるところは他にないのではないか。
  
 熊本城の空中通路も、熊本駅白川口の駅前整備も、くまもとアートポリス事業ではない。だが、くまもとアートポリスが35年間も継続していることで、こういうプロジェクトに携わる人たち(行政マンやJRの社員)の意識が変わったことは間違いないと思う。そうでないならば、もっとこのレベルのものが日本のあちこちに出現しているはずである。

「何ができるか分からないのがまた面白い」(磯崎新)

 くまもとアートポリス事業のスタートは1988年5月。細川護熙県知事(当時)がIBA(ベルリン国際建築展)のようなまちづくりを着想し、磯崎氏に相談。磯崎氏がアドバイザーの堀内清治氏(1925~2008年、当時は熊本大学教授)やディレクターの八束はじめ氏らと設計発注の仕組みをつくり上げた。

 冒頭で書いたように、磯崎氏はくまもとアートポリスで自身は1件も設計をしなかった。磯崎氏の建築プロデュースといえば、福岡の「ネクサスワールド」も有名だが、あちらは実現しなかったものの自身の設計によるツインタワーを計画していた。

 熊本ではなぜ、自身で設計しなかったのか。関係者の誰も止めてはいなかったし、むしろやったらいいくらいに思っていたようだ。そうしなかった理由について、先の日経アーキテクチュアの記事ではこう書いた(太字部)。

日経アーキテクチュア2023年2月23日号

 磯崎は1991年の日経アーキテクチュアインタビューで、KAP(くまもとアートポリス)についてこう語った。

 「結局のところ、つくり手であるクライアントと受け手であるパブリックの両方の頭が切り替わらない限り、良い建築は社会的に実現しない」

 「ある種のイベントを動かす過程に僕自身が関わることになって、その結果、新しいタイプの建築家が社会の中に登場してくる。そういうことを続けることによってクライアントの意識も変わっていく」

 磯崎は、すべてが自分のお仕着せでは誰の意識も変わらないと考えたのではないか。このことは、細川護熙氏の「『何ができるか分からないのがまた面白い』と言っていました」という発言とも重なる。

 上の引用に補足すると、磯崎氏はくまもとアートポリスについては「継続」を強く意識していたのだと筆者は思う。特集の取材では、「磯崎氏は自分の行動を『事件』にすることを好んだ」という話をよく聞いた。最も確実に事件を起こすには、磯崎氏自身が手を動かすことが早道だろう。だが、ここでは違う方法を選んだ。

 くまもとアートポリスのスタートは磯崎氏の全盛期ともいえる80年代後半。事件はそれまでにもさんざん仕掛けてきた。ここでは、「任せる」ことで「継続の可能性」を実験してみよう。そんなふうに考えたのではないか。

 その成果が30年以上たって実を結び始めている。今が最盛期なのか、ここからさらに大きな花を咲かせるのか。とにかく、今の熊本が見ごろであることは間違いない。(宮沢洋)