池袋建築巡礼10:「東京芸術劇場」(後編)、2度の改修で知る大御所・芦原義信の挑戦心

Pocket

 「前振りの小ネタに」くらいの気持ちで見に行ったワンコイン・パイプオルガンコンサートが面白くて、前回はその話だけで終わってしまった。記念すべき連載第10回となる今回は、「東京芸術劇場」(1990年竣工、設計:芦原義信)の建築的挑戦について書きたい。

(写真:宮沢洋、以下も)

 東京芸術劇場(以下、芸劇)は1990年10月30日に開館した。今年は31年目となる。かつて学芸大学付属豊島小学校(元・豊島師範学校)がここにあった。その跡地が1970年に池袋西口公園となり、その後、池袋駅西口一帯の再開発に伴い公園も再整備され、その一角に芦原義信(1918~2003年)の設計により芸劇がオープンした。

 芦原は武蔵野美術大学や東京大学で教授を務めた建築家で、芸劇の完成時は70歳を過ぎた大御所だった。しかし、いろいろな意味で年齢を感じさせないアグレッシブな建築だ。

ホールを重ねてアトリウムをつくる

 この建築のチャンレンジングな点の1つは、ホールを3層に積み重ねたことだ。前回も書いたように、芸劇は、2つの小ホール(シアターイーストとシアターウエスト)の上に中ホール(プレイハウス)、その上に大ホール(コンサートホール)と3段重ねになっている。大ホールは、アトリウムからエスカレーターで5階に上る。客席に入るにはさらにエスカレーターに乗る。公共の劇場でこんなにエスカレーターに乗るところは珍しい。

 建物の平面図を見ると、大ホールと中ホールを横に並べるという方法もあったように思われる。そうせずに積層させたのは、「ゆったりしたアトリウム」を設けるためであったことは間違いない。アトリウムというのは「屋内型の広場」のこと。今ではこうしたガラス屋根で覆われた巨大アトリウムも珍しくなくなったが、日本でアトリウムと呼ばれるものがつくられるようになったのは1980年代半ば以降。芸劇のように、3面(東面・北面・屋根面)がガラス張りという巨大アトリウムは当時、珍しかった。

ホールを積み重ねたことにより、東西面にはこんな吊り構造の避難スロープがつくられた。普段使わないのがもったいない凝ったデザイン

 建築を学ぶ人ならば誰でも知っている名著の1つに、『街並みの美学』(1979年)という芦原義信の著書がある。建築を都市のパブリックスペースとしてデザインすることの重要性を説いた先駆的な本だ。芦原の代表作の1つに駒沢オリンピック公園の「駒沢体育館」(1964年)があるが、芦原は屋外広場の設計の中心にもなった。あの一面に敷石が広がる中央広場は、50年以上たった今も多くの人でにぎわう。まさに「都市のパブリックスペース」といえるだろう。

 芦原は芸劇でも、単なる便利な劇場ではなく、都市のにぎわいを生むパブリックスペースを目指した。駒沢のように全部を屋外広場にするのではなく、アトリウムにこだわった。おそらくそれは「池袋駅から見たときのシンボル性」を重視したからだろう。その証拠に(と言っても筆者の勝手な見立てだが)、正面の大きな逆三角形の屋根面は、上に小さなトンガリが付いていて、「ここだよ!」とエントランスを示す「下向き矢印(↓)」に見える。

池袋駅西口交差点からの遠景。斜めのガラス面が下向きの矢印に見えませんか? 
中から見ると、もっと矢印

今はなき“恐怖のエスカレーター”の真意は?

 外観のシンボル性の高さは誰もが納得するところだったと思うが、アトリウムの内部については当時、賛否があった。いやむしろ否が多かったかもしれない。これは現在の写真。

 なんとも心地いい陽だまり空間となっているが、開館当初から約20年間、アトリウムのほぼ中心に“恐怖のエスカレーター”とも呼ばれる「1階→5階直通」の長くて高いエスカレーターが架かっていたのだ。当時の写真を撮っていなかったので(無念)、ここはイラスト描き込みでご容赦を。まず現在。

 そしてビフォー↓。真ん中やや奥に、ズドンと巨大な青いエスカレーターが架かっていた。

 このエスカレーター、私も乗ったことがあるが、確かに怖かった。手すり壁は高くて幅があり、落ちるということはあり得ないのだが、視覚的に周囲にガラスがない状態であの高さはなんとも心細いものだ。もちろん高いところが好きで、ワクワクした人もいたとは思うが……。とはいえ、災害時の安全面を考えると、これだけの長さを避難箇所なしで一気に上るのは、ちょっとどうかと思う。

 2012年の改修でこれを撤去してしまったのは松田平田設計と建築家の香山壽夫氏(1937年生まれ)だ。芦原よりも約20歳若いが、 香山氏もまた東京大学教授を務めた大御所である。香山氏は大ナタを振るい、恐怖の直線エスカレーターを、西側の壁沿いにL字に2段階で上る形に変更。低い方のエスカレーターの脇に楕円形のボックスオフィス(チケットブース)を設け、その上におしゃれな休憩スペースを設けた。

今の姿に芦原自身も安心しているかも

 「撤去される」と聞くと寂しくなるもので、改修計画を聞いたときには、「やっぱりあのエスカレーターはあの空間に不可欠なのでは」と思った。でも、改修されてなくなってみると、さほど違和感はない。いや、明らかに、ない方がアトリウムに開放感があり、居心地がいい。あの直線エスカレーターは、乗らなくても空間全体に威圧感を与えていた。たぶん今、アンケート調査をしても「昔のエスカレーターの方がよかった」という人はほとんどいないと思う。

 もしかしたら芦原自身も、長い目で考えれば「ない方がいい」と思っていたかもしれない。あのエスカレーターは、計画段階で「アトリウムの必要性」を説くためには必要だったのだろう。駅から見たときにシンボルとなるガラスの箱、そして、中に入ると、吹き抜けを見上げるように一気に5階まで上るエスカレーター……。ストーリーとしてはその方が分かりやすい。設計はアトリウム黎明期の80年代後半だ。もし計画段階から「L字に折れ曲がるエスカレーター」であったら視覚的インパクトに欠け、アトリウム自体が実現しなかった可能性が高い。

 先に触れた駒沢体育館の広場を思い浮かべると分かるが、本来の芦原は、広場に「余計なものを置かない」人なのだ。何もないアトリウムの心地良さは、芦原も分かっていたはず。天国の芦原も、今のアトリウムを見て安心しているのではないか。

屋外の広場も大改修

 内部の改修からさらに7年後の2019年、今度は建物前の広場が大改修された。大きなリング状パーゴラと野外ステージが誕生した。「池袋西口公園 GROBAL RING(グローバルリング)」という名前の施設で、2019年11月にオープンした。

 設計したのは三菱地所設計・ランドスケープ・プラスJVだ。筆者は素っ気ない元の広場が好きだったので、これも改修計画を聞いたとき、「元のままの方が絶対にいい」と思った。だが、出来上がってみると、これはこれで悪くない。まず、元からあった床の円(敷石による模様)を生かしているのが好感が持てる。イベント利用のときには一体感が強まる感じがする。何より、池袋駅方向からの誘導効果が明らかに増している。何でもすぐに「変えない方がいい」と思ってしまうのは、歳をとったからなのかなあ、と反省する。

なぜリングで劇場方向に誘導しない?

 ただ、最初にこのリングを見たとき、なぜリングの端を芸劇に導くような形にしないのだろうと不思議に思った。どうして完結した円(正確にはスパイラル)にするのかと。私ならたぶん、こんな形↓にする。

 この施設の発注者を知って理由が分かった。豊島区なのである。芸劇の発注者は東京都だ。つまり、我々が芸劇まで含めて「1つの広場」と考えているスペースには、東京都と豊島区の敷地境界があったのだ。

 もちろんそれは、芦原が設計したときからそうだったわけで、芦原は、それぞれの発注者の顔を立てつつ、境界を感じさせないデザインを考えた。そして、それぞれの敷石に2つの大きな円を描いた。1つは芸劇の入り口部分を中心とする円。もう1つは現在のグローバルリングの中心と重なる円だ。これまで考えたことがなかったが、この円はそういう意図だったのか。

芸劇の入り口部分を中心とする円。奥に見えるベージュ色の建物は、東京大学で芦原に教わった大江匡氏(1954~2020年)が設計した都税事務所。詳細は池袋建築巡礼の第6回参照
グローバルリングの中心と重なる円

 2度の大改修によって改めて知る芦原義信の「パブリックスペース」への想い。前回紹介した回転式パイプオルガンも含めて、この建築は“池袋の宝”である。(宮沢洋)

<これまでの掲載記事>
池袋建築巡礼01:30年たっても古びないデザイン交番、「池袋二又交番」
池袋建築巡礼02:丹下健三が“負ける建築”を模索した? 「立教大学旧図書館」
池袋建築巡礼03:学会賞建築家によるこだわりホテル、「hotel Siro」が面白い
池袋建築巡礼04:西口娯楽のシンボル「ロサ会館」、巨大なピンク外壁の理由が分かった!
池袋建築巡礼05:「落水荘」思わす婦人之友社ビル、F.L.ライト直伝・遠藤楽が設計
池袋建築巡礼06:傑作「I.W.G.P.」を生んだ(かもしれない)双塔の都税事務所
池袋建築巡礼07〈未来編〉:にぎわいはサンシャインの先へ、造幣局跡地開発の総仕上げ─東京国際大学新キャンパス
池袋建築巡礼08:今夏で閉館の「池袋マルイ」、毎日見ても飽きない「白メシ建築」の謎を追う
池袋建築巡礼09:「東京芸術劇場」(前編)、バッハも仰天のエンタメ・パイプオルガンを500円で堪能