倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」19:安藤忠雄はいかにして「住吉の長屋」に至ったか

 安藤忠雄は、この1977〜81年という時期に表層の特性を活用し、作風を確立した建築家だ。言い換えると、彼は本論考で叙述し始めている「ポストモダニズム」の歴史の中に位置づけられ、建築における表面性を発見した建築家の一人である。

安藤忠雄「住吉の長屋」1976年(写真:倉方俊輔)

 こう記した時に予想される反論を、まず書こう。

 彼の画期は「住吉の長屋」(1976年)であって、1977〜81年は作品はその延長上にあるので、特段、時期として問題にする必要はないのではないか。安藤忠雄こそ、軽佻浮薄なポストモダニズムに流されずに自らの信念を貫き、虚飾を排し、人間的で、周辺環境に呼応した作風によって近代建築の初心を取り戻し、その後の世界的なモダニズム回帰の潮流を先導した巨匠であるのに、何を言っているのか。安藤作品の魅力とは、厚みのある打ち放しコンクリートによる幾何学的な空間が、現地を訪れて初めて分かる感動を与えるところにあって、頭でっかちな表層の戯れとは似ても似つかず、表面性を軽やかにまとった同世代の伊東豊雄や長谷川逸子らと対照的であるのは言うまでもないはずだ。

 ここまでの文章は、現時点で普通に思われていることを端的にまとめたものなので、読んでいて納得したことだろう。内容も、まあ正しい。私もメディア向きに短く紹介してほしいと言われたら、こう述べてしまうかもしれない。しかし、これらが矛盾に気づかないふりをして取り繕った表面的な解説に過ぎないのも、また確かだ。

 語り直しは、やはり1976年に完成した作品から始まる。これらは表層期以前の性格を含みながら、翌年からの表層期の母体となった。同じ年に完成し、連載第3回で論じた「中野本町の家」(1976年)が伊東豊雄にとってそうであったように、連載第17回で扱った坂本一成の「代田の町家」(1976年)と同様に。

「住吉の長屋」と共通点が多い双子の作品「番匠邸」

 1976年に安藤忠雄は3つの住宅を完成させた。その1つが、言わずとしれた「住吉の長屋」だ。作者が掲載を待望していた『新建築』の誌面に初めて採用された。それ以降は、作品が完成するごとに掲載されるような常連になるので、メディアの視点からも、ローカル建築家からの脱皮を果たした作品と見て良いだろう。

 あまり語られない双子の存在を気に留めたい。同じ『新建築』1977年2月号に掲載された「番匠邸」(1976年)である。割かれた誌面は「住吉の長屋」と同一の8ページであり、生みの親も論考で並べて扱っている。そして、その本質も語るに足るものなのだ。

 「番匠邸」と「住吉の長屋」は共通する点が多い。壁や天井は内外ともに打ち放しコンクリートの仕上げで、形は直方体の組み合わせである。

 「番匠邸」は道路から玄関までの外部空間を、L字型をしたコンクリート壁と建物外壁で囲い込んでいる。そこには正方形のせっ器質タイルが敷き詰められて、外室のようだ。同じタイルが、玄関を入った先の居間とダイニングキッチンの床にも使われている。ダイニングキッチンの上部へと、その直方体を3等分にした1つに設けられた直線階段で居間から上がった先に寝室がある。階段が降り注ぐ光に包まれているのは、居間の上部が壁で囲われたルーフガーデンになっているからで、外に出るためのドアやガラス窓から光が透過していたのだ。公道から見た時には、敷地境界から2階分の高さの壁が立ち上がっていた。実はその上半分は、外部空間を囲い込んでいたのである。

 「住吉の長屋」では、立ち上がる壁で外部空間を囲い、その中庭にも1階の室内にも玄昌石を敷き詰めた。打ち放しコンクリートの壁と硬質な床仕上げによって、外部を内部のように、内部を外部のように感じさせるつくりは「番匠邸」と同一である。そんなシーンは、公道からは予期できない。壁面の向こうは別世界なのだ。

都市に背を向けず、表面を整えた打ち放しコンクリート

 そして、その面(おもて)の共通性に触れないではいられない。2作とも都市に向き合う面が、放置されていない。「打ち放し」の言葉を裏切って、手放されていないのである。

 私たちは見る者への気遣いを、絹のような肌の仕上がりによって感じ取っているのではない。コンクリートの型枠用合板の分割やセパ穴の配列が、建物全体や開口部の寸法に整合されているから、手がかけられていると思うのだ。確かに型枠やセパ穴はコンクリートを施工する上で必要な要素であり、それが露出されているのだが、それらの配列を整える行為は、機能的に求められる工事ではない。むしろ、型枠を固定するというセパ穴の機能からすれば、整然と並ぶ状態は、よほど気遣っていないと得られない。すっぴんの美しさに見えて、手がかけられた顔なのだ。

 「住吉の長屋」も「番匠邸」も、都市に背を向けた建築ではない。住宅は塀などの向こうに身を隠していない。率直に、すくっと立っている。露出したコンクリートがなぜ嫌な気にさせないかというと、壁の裏側を見せられたとは思わないからだろう。内部の空間をつくって終わりではなく、表面が整えられた打ち放しコンクリートは、こちら側を向いている。都市の表面(おもてめん)を形成する要素になっているのだ。

 ただし、面の向こう側を知ることはできない。実際、その奥に別種の空間が待っていることは、先ほど指摘した。外観は内部空間と対応していない。そして、打ち放しコンクリート面の構成は機能に由来していない。つまり、1976年に安藤忠雄が完成させた住宅は、まったくもって近代建築ではないのだ。

「都市ゲリラ住居=住吉の長屋」ではない

 安藤作品がモダニズムだという通俗的な見方を否定した返す刀で、「都市に対する抵抗の砦」でもないことを確認したい。

 1973年の論考「都市ゲリラ住居」の中で、安藤忠雄は「重層化し、錯綜した都市の中で、高度な〈情報化〉と、それに伴うビューロクラシー〈中略〉に、対抗し、終局を告げうる唯一の砦は、〈個〉から構築された住居」であると書いた(注1)。併せて発表されたプロジェクトを指して「我々の三住居に対するテーマは、外部環境への〈嫌悪〉と、〈拒絶〉の意志表示としてファサードを捨象し内部空間の充実化をめざす」ともある。初期の安藤忠雄を語る際に必ずと言っていいほど参照されるのがこの「都市ゲリラ住居」であり、しばしば「住吉の長屋」に直結させられるが、内容の違いは明白だろう。

 すでに述べたように「住吉の長屋」も「番匠邸」も、外部環境に向き合う顔への意識を捨て去っていない。ただし「ファサード」が特権的に扱われていないのは、論考の方向性に近い。公道から見るのと同様のコンクリートの面は、内部空間にも出現している。こちら側も気遣われた表面だ。したがって、打ち放しコンクリートであっても、中から目にする人間が疎外感を覚えることがない。「背後もまた表面」(注2)であることにおいて、外観も内観も同一なのである。

 このように「住吉の長屋」と「番匠邸」は、1973年の「都市ゲリラ住居」の意志を引き継ぎながら、その姿は文章の内容とは似つかない。「砦」のように内部と外部の境界が特権化されておらず、そこに外部環境への拒絶の意志も表示されていないのだから。このように、1976年における安藤忠雄の作品も、表層期(1977〜81年)以前からの問題意識の帰結であると同時に、表層期という別の様相への結節点となっている。

意図的な操作性が感じられる「番匠邸」

 ここまでは1976年に生まれた「住吉の長屋」と「番匠邸」を一緒に扱ってきたのだった。しかし、2つの別の個性を有していることを忘れてはならない。ここからは、誕生時の若干の前後や周辺環境の違いでは説明できない相違に注目したい。

 「番匠邸」で最も意外に思われるのは、玄関と居間の間に見られる一点可動式の木製衝立ではないだろうか。通常の扉2枚分ほどの幅の板が、床から天井までの高さで取り付けられ、中心を軸に360度回転できるようになっている。部屋を完全に間仕切る位置に設けられてはいないので、機能的というよりも、動かすことによる空間の変化を意図していると考えられる。

 これを付加的な事柄として片付けられないのは『新建築』の誌面で大きく扱われていることもある(注3)。一点可動式の木製衝立は、最初のページに写って玄関から居間に読者をいざなった後、開閉の角度を変えて、居間からダイニングキッチンに続く主要空間を撮影した写真では、玄関の窓から差し込む外光を鋭く切り取っている。光の効果を変化させるという「番匠邸」の主要な意図に、この動く面は関わっているのだ。

 これを目にした時、安藤忠雄の建築のすべては「住吉の長屋」から始まるといった神話が揺らがされるのは、内装的で動的なものが、今の私たちが安藤忠雄的とみなしている空間性に関与しているからだろう。構築そのものを象徴するような壁が立ち、不動のそれが人の手に負えない天空からの光を受けることによって生み出される空間のドラマ。そんな風にだけ安藤忠雄の建築を理解した時、内装によって人為的に空間の性格を変化させる仕掛けが、私たちを戸惑わせるのである。次のように言いかえても良いかもしれない。「番匠邸」からは操作性が感じられると。

空間全体の性格を左右する家具の存在

 2つ目の「住吉の長屋」との違いも、操作性に関係する。大きな箱を三分割したように見える「住吉の長屋」に対して、「番匠邸」は2つの箱が組み合わされている。道路際の箱の中に居間とルーフガーデンがあり、奥の細長い箱にダイニングキッチンと寝室と階段が収められている。

 気になるのは、前者に後者がめり込んだかのような構成である。2つの箱の面は少しずらされて、どこで立方体が組み合わさっているかは内部でも鮮明に感じられる。ダイナミックな貫入が、丁寧に設計されているのだ。これは「住吉の長屋」が、全体の構成は静的な幾何学であるのとは異なっている。1つ目の相違とは違って、これは建築の構成についてだが、動きを生み出すための細やかな調整は、同じ「内装的で動的」という言葉で形容できる。こちらも作者の意図が垣間見え、操作性が感じられる。

 3つ目に指摘したいのは、内装そのものである。それに気付かされるのが当時の『新建築』の切り取り方で、掲載された「番匠邸」の唯一のカラー写真が、1ページ大で捉えた居間の内装になっている。正面から写真に捉えられた収納部は実に細やかだ。部屋の横幅いっぱいに、肩ほどの高さまで正方形の棚が作り付けられて、下段は一つが3等分されて引き出しの機能を果たし、格子のパターンは後ろの同じ木製の壁にも引き継がれている。

 これらの家具が付加的なものとみなせないのは、空間全体の性格を左右しているからだ。部屋の中央には、以後も多用される円形紙管を型枠に使った打ち放しコンクリートの円柱が立っている。左右対称の象徴性は、円柱と左右の内壁との間にそれぞれ5個の正方形が正確に収まることによって強調されている。躯体工事の結果と、その後の内装工事とが絡み合いながら効果を挙げている。このように繊細な秩序は、設計者に関する従来のイメージを裏切るかもしれない。

 家具が積極的に建築化されている様子は、坂本一成の「南湖の家」(1978年)を思い起こさせる。この安藤忠雄の作品でも、統合された垂直と水平の線が物質性を離れた表面を知覚させていると言えるかもしれない。連載の第17回で「南湖の家」に与えた「結局、このような表面が意図的な表現なのか、日常的な機能の解決なのかは決定しがたいのである」という形容は、型枠やセパ穴を露出させながら気遣われた打ち放しコンクリートの面にも妥当であるのに気づく。ここから見えてくるのは、孤高の建築家とみなされがちな安藤忠雄が同時代の文脈で語れる可能性と、安藤忠雄に見られる操作性が付加的なものではなく、その本質を理解するのに欠かせないという可能性である。

「住吉の長屋」にも操作性は皆無ではない

 これら3点の「相違」を知った後に「住吉の長屋」に戻ると、どのように見え方が変わるのだろう。

安藤忠雄「住吉の長屋」1976年(写真:倉方俊輔)

 1つ目の可動式の建具は「住吉の長屋」に存在しない。ただし、小さな光の仕掛けと解釈すると、玄関部にある光の筒が目を引く。この住宅を正面から捉えた時、打ち放しコンクリートの面にうがたれた窪みが、まるで暗闇が口を開けているように写っている写真は有名だろう。ところで、その向こう側も、実は傘をささなくてはならない空間であることはご存知だろうか。

 玄関部は完全な軒天井ではなく、2階部分を煙突状の空間が貫いている(注4)。したがって、顔を上げると、細長い薄暗がりの向こうから、外光が打ち放しコンクリートの地肌をつたって落ちてくる光景が見られる。細やかで、個別性の高い仕掛けである。住宅全体の割り切った構成からすると、異質にも思える。しかし、これも1976年時点の作者が確かに有していた要素なのだ。

 2つ目の貫入する幾何学はどうだろうか。改めて「住吉の長屋」の全体構成を確認しよう。玄関を入った部分が居間で、屋外である中庭をはさんでダイニングキッチンと浴室、中庭の階段を上がって居間の上部に寝室が位置している。もう一つの部屋までは、寝室から中庭に架け渡された歩廊で向かう。床仕上げは1階が内外とも玄昌石貼りで、2階の室内はフローリングになっている。

 2階の部屋に入るために靴を脱ぐ所は、半円形に掻き取られている。まっすぐに伸びてきた歩廊の玄昌石貼りが、室内に食い込んできたかのようだ。幾何学が貫入している印象が何に由来するのかを考えると、歩廊の両脇が打ち放しコンクリートであることに気づく。手すりという機能だけでは説明できない堅牢な仕上げが、構造体である壁による囲い込みと同じくらい強く、透明な空間のヴォリュームを知覚させる。中庭の空中に出現した伸びやかさを押し殺さないよう、2つの終端は室内にめり込み、運動を終えたのだろう。このように、貫入する幾何学は「住吉の長屋」にも皆無ではない。そのかすかな現れが、住宅全体にダイナミックさをまぶし、人びとが名作と呼ぶにふさわしい性格を与えているのだ。

内装に込められたエネルギーによって獲得された説得力

 3つ目の内装に関しても、同様に丁寧な操作が施されている。その代表的なものとして、「住吉の長屋」は直方体を3分割して構成されているという説明に収まらない箇所を見ていきたい。

 一つは玄関部だ。先ほどの1つ目で言及したように、正面から窪んで見えた部分は、居間の側では出っ張りとして現れる。その下部には、5個の正方形が収まる形で棚が作り付けられている。上部に現れた打ち放しコンクリートは、左右対称にセパ穴を整えている。ここにあるのは、躯体工事と内装工事が手を取り合った効果である。玄関部の窪みはこちら側に顔を向け、中の人間から裏側にいるという意識を消し去る。「番匠邸」と同じ手法が、ここでは住宅全体の秩序を高めている。細やかな内装工事は、軸線の存在をやわらかく、日常の意識に浸透させるに違いない。

 もう一つは、1つ目に指摘した光の筒の部分で、従来あまり言及されていなかったのは、内部からは意識されないからだろう。躯体のみであれば、2階の寝室に出っ張りとして現れるはずだが、そうなっていない。左右の凹みに木製のクローゼットを作り付け、中央部も同じ木材で仕上げているために、壁の中にいる人間には矩形の空間としか感じられないのだ。

 中央部を単なる仕上げと受け止めないのは、表面に溝が丁寧に施されているからである。溝のパターンは左右の家具と同種であり、そのテイストは壁から手前に作り付けられたデスクに受け継がれている。壁の表面仕上げ、中央のデスク、左右のベッドという一連の内装工事は、全体構成と一体になって、住宅の左右対称性を自然なものにしている。

 もう「住吉の長屋」が躯体工事で完成した住宅だと誤解されることはないだろう。透明な空間のヴォリュームの中での静謐な暮らしといった説得力は多分に、内装に込められたエネルギーによって獲得されていた。

同時期の「平林邸」では「貫入」を明言

 ここまで「番匠邸」で得られた3つの視点から「住吉の長屋」を再読してきた。後の安藤忠雄があまり垣間見せない操作性が、意外にも存在していることが明らかになった。

 安藤忠雄にとっての1976年が前後の時期とどのような関係にあるのかをより明瞭にするために、同年のもう一つの住宅を確認したい。「住吉の長屋」と同じ月に施工が始まり、それより5か月後に完成した「平林邸」(1976年)である。『新建築』には掲載されなかったが、『建築文化』1976年11月号に、本人による作品解説と共に載っている(注5)。

 最初のページで目を引くのは、作品名よりも巨大なフォントで記された「貫入」の2文字だ。「貫入」という表現は、これまで「番匠邸」と「住吉の長屋」を分析する過程で現れた。安藤忠雄が「平林邸」の作品解説に冠したタイトルが「貫入」で、この言葉は本文中に2度、次のように登場する。

 「空間の基本構造を壁構造、機能・技術はラーメン構造と、それぞれ異なったレベルで扱い、このシステムのイメージを整合性をもって全体化するというのではなく、互いに拮抗させることにより、その間隙に生じる空間に期待した。そのためわれわれは、二つの構造を貫入させるという一つの解決方法を採用した。」

 「われわれがつくりえたものというと、おそらく二つの構造を貫入させた結果生じた、目的化しえない空間だけだったかもしれない。」

 ここに述べられている通りに「平林邸」の全体構成は、壁面と格子との貫入によって説明できる。打ち放しコンクリートによる柱梁のグリッドフレームが一直線に続き、連続する面および曲面の壁がそれに交差することで、住宅内外の空間が生まれている。

 グリッドフレームの柱間は、長手方向においてはまちまちであり、各柱間が居間や客間、中庭などになっている。均等なラーメン構造という一般的な形はとっていないのだ。グリッドフレームは構造的な要請から決定されたものでなく、こちらもまた「空間の基本構造」と呼べることが分かる。まさに2つの異なる原理の貫入で空間を設計することが「平林邸」の焦点なのである。同時期に計画された「番匠邸」「住吉の長屋」から、貫入する幾何学という特徴が抽出できたこともうなづける。

後の作品につながるグリッドフレーム

 あと2つの特徴も「平林邸」に共通している。曲面壁の中にあるホールに入ろう。2層吹き抜けの空間で、外光が打ち放しコンクリートの面をつたって落ちてくる。この印象的な光景が生まれているのは、壁面とグリッドフレームが交わる部分に細い隙間がとられているからだ。先の「番匠邸」では、住宅を構成する2つの箱を少しずらし、その間にスリット状の窓を設けていた。どちらも2つの幾何学が癒着するのではなく、ダイナミックに貫入していることを示すための細やかな処理であり、それが光を調整している。

 貫入のコンセプトは内装にも反映されている。ホールの壁に沿う形で家具が左右対称に作り付けられ、そこに斜め45度に段状の棚が切り込んでいる。吹き抜けを見上げると、グリッドフレームを構成している端部が宙に突き出している。打ち放しコンクリートの2つの梁が延長され、2つの原理が激突した住宅であることを強調しているのだ。いずれも個別性の高い仕掛けであり、「住吉の長屋」と同じ年にこれが完成しているのは意外かもしれない。

 確かに「平林邸」は1976年の3作品の中でも操作性に富んだものだが、その後に継承されるモチーフが初めて登場していることも見逃せない。「六甲の集合住宅II」(1993年)などで印象的なグリッドフレームである。特に今回の3作品に続く表層期(1977〜81年)において、グリッドフレームは「帝塚山の家」(1977年)や「松本邸」(1980年)など多くの住宅で使われている。「壁の建築家」であるはずの安藤忠雄が格子を用いたことは何を意味するのだろうか?

「ポストモダニズム」の歴史のただ中にいた安藤忠雄

 準備はできたようだ。1977〜81年が安藤忠雄を考える上で重要な時期であるのは言うまでもない。

 1977年に掲載された「住吉の長屋」によって関西の枠組みを超えて認識されるようになり、伊東豊雄など同世代の建築家との交流が生まれた。1979年に日本建築学会賞(作品)を受賞し、1981年の「小篠邸」は世界的に知られるステップとなった。彼もまた表層期に、長く続く作風を確立した建築家である。今回は「住吉の長屋」をはじめとした1976年の作品に潜む操作性に言及し、安藤忠雄の個性が表面性に関わることを示唆してきた。それがどのように表層と関係し、「ポストモダニズム」の歴史に位置づけられるのかを次に述べたい。

注1:安藤忠雄「都市ゲリラ住居」(『別冊都市住宅住宅第4集』 1973年7月号、鹿島出版会)18〜19頁
注2:宮川淳『引用の織物』 (筑摩書房、 1975) 147頁
注3:安藤忠雄「番匠邸」(『新建築』 1977年2月号、新建築社)211〜218頁
注4:安藤忠雄「住吉の長屋」(『新建築』 1977年2月号、新建築社)203〜210頁
注5:安藤忠雄「貫入|平林邸」(『建築文化』 1976年11月号、彰国社)65〜72頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、建築公開イベント「東京建築祭」実行委員長、「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」実行委員、一般社団法人リビングヘリテージデザインメンバー、一般社団法人東京建築アクセスポイント理事などを務める。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)

団地再生に学生たちの熱い視線が再び? 団地再生支援協会が学生賞の審査結果を発表

 団地再生支援協会は発足以来、「集合住宅再生・団地再生・地域再生学生賞」をほぼ毎年開催し、今年で21回目を迎えた。全国の学生から団地再生の理念・計画・デザインに関する提案を募り、優れた作品を表彰するというもので、前年度の卒業設計の作品が対象になることが多いという。

左から、団地再生支援協会で理事を務める田島則行さん、優秀賞の田村陸人さんと志村裕己さん、最優秀賞の伊藤佑那さん、奨励賞の池田瑶葵さん、会長の松村秀一さん(写真:長井美暁)

 同会は「団地再生」という大きなテーマに日本で初めて取り組み始めた、複数の法人と個人からなる団体だ。前身の団地産業協議会が発足したのが2003年。会長は初代・内田祥哉さん、2代目・近藤正一さんの後を引き継ぎ、2016年から松村秀一さん(神戸芸術工科大学学長)が務めている。

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宮崎浩氏の「川場BASE」、デトックスのような場を実現する川場村の理念

 2022年の日本建築学会賞を受賞した宮崎浩氏(プランツアソシエイツ代表)の新作「川場BASE」(群馬県川場村)を見てきた。村の新庁舎を核とする複合施設で、2023年11月に開庁した。すでに『新建築』2024年1月号に掲載されている。実物を見た知人も激推ししていたのだが、「雪がなくなったら見に行こう」と思っているうちに7月になってしまった。それでも建築の神はほほえみ、梅雨の谷間の好天を満喫できた。

「川場BASE」というのはてっきり、建築メディア発表時の“建築界ネーム”だと思っていたのだが、公式な名前だった。こんな名前が付けられるのも川場村のセンスの良さ(写真:宮沢洋)
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内藤廣連載「赤鬼・青鬼の建築真相究明」第4回:残る建築、メタボリズム、乾燥なめくじ──[マジで建築論パート3]

そうか、吉阪隆正先生は美人に弱かったのか…。えっ、そこじゃない? あまりに広範な内容なので、どこを拾っていいのやら…。赤鬼、青鬼、巨匠の先生方、今回も思う存分お願いします!(ここまでBUNGA NET編集部)

今回、後半で登場する菊竹清訓氏と内藤廣氏。2009年3月。内藤氏の講演会の控室にて(提供:内藤廣建築設計事務所)

もう一回、延長お願いしまーす。

[赤] やっぱり延長戦じゃ収まりきらなかったな。

[青] っていうわけで パート3、ってことになった。

[赤] いろいろ建築を論じてるけど、所詮は無常だね。

[青] いきなりどうしたんだ。一人で黄昏れてるなんてオマエらしくないぞ。自己主張がオマエのいいとこなんだから。

[赤] でも、いいかげん歳なんだから疲れてきたんだよ。

[青] まあオレも同じだけどね。あれこれ都市計画に関わりすぎたかな。ありゃ基本的には匿名性の世界だからな。ひたすら青い世界。消耗戦だから疲れる。

[赤] でもそればかりでやっちゃうと街が死んじゃうんだけどね、オレもだけど。やっぱり街は生き物なんだからさ。リッパで整理された街ができて、街が滅びる、ってことだってあるんだから。

[青] だから青ばっかりじゃなくて赤も必要だってことくらい分ってるよ。

[赤] 都市のアレコレをやってると、どんなにオリジナリティを提供しても、巨大な団体戦を戦っているみたいで、関わった人の名前なんてどんどん忘れられていくんだよね。

[青] それはそれで美しい話なんだけどね。「私」を殺して「公」に殉じる、ってとこもあるからね。無私の精神。わるくない、でも時々疲れる。

[赤] 石川栄耀(いしかわひであき)なんて、やったこともすごいけど、人としても素晴らしい。生き方に物語がある。彼みたいに名前が残るのは例外的な存在だなー。

※石川栄耀(1893年9月7日 – 1955年9月25日)は日本の都市計画家。都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親および命名者。〔ウィキペディアから引用〕

[青] 鉄道や道路やダム、土木だとさらに巨大になって匿名性が徹底していくよね。

[赤] 八田與一(はったよいち)や青山士(あおやまあきら)なんて世の中の人はまるで知らないもんねー。

※八田與一(1886年2月21日 – 1942年5月8日)は日本の水利技術者。
※青山士(1878年9月23日 – 1963年3月21日)は日本の土木技師、内務官僚。〔いずれもウィキペディアから引用

[青] 全然知らないだろうな。たぶん太田圓三(おおたえんぞう)も知らないんだろうね。

※太田圓三 (1881年3月10日 – 1926年3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。〔ウィキペディアから引用

[赤] 籍を置いたことがあるから言うわけじゃないんだけど、土木の経世済民と他者救済の精神、知っておいてほしいなー。

[青] 建築はこれとは真逆だね。自己表現と自己救済がみんなの関心ごとなんだから。

[赤] これも行き過ぎだと思うけどね。みんながスターを目指すなんて異様だよ。

「諸名無常」

[青] 字が間違ってる。諸行無常なんじゃないの。

[赤] これでいいのだ !!!

[青] いろんな建築家に会ってきたけど、人の名前なんて、あっという間に消えていく、っていうのを感じる今日この頃だな。

[赤] 山口文象、吉阪隆正、菊竹清訓、西澤文隆、髙橋靗一、宮脇檀、黒沢隆、林昌二、池田武邦、フェルナンド・イゲーラス、磯崎新、黒川紀章、宮本忠長、本間利雄、倉森治。ときたま頭の中で亡霊で出てくるけど、だいたい怒ってる。

[青] 大先輩方、みなさんお世話になりました。

[赤] 石元泰博、川添登、長谷川堯、馬場璋造、二川幸夫、平良敬一、宮内嘉久。

[青] いろいろ教えていただきました。でも、一世を風靡したりあれだけ大きな仕事をした人たちでも、世代が変われば忘れられていくんだね。

[赤] まあ、オレたちも消えていくんだけどね。

[青] まだ、消えるに値するほどの現れ方もしていないんだから、エラソーに言ったらまた怒られるぞ。

[赤] そうだね。

[青] でも、名前は消えて、建物が残って、それでいいんだよ。そういうほうがサバサバしていていいんじゃないの。

[赤] でも、一生懸命やったんだから、名前が消えてもなんとなく懐かしがられるくらいの建物が残せるといいんだけどなー。

[青] ま、人それぞれだから、やれることやるしかないね。

[赤] 頑張りますか。どうせ時代なんか当てにならないんだから、持ち場で全力投球するしかない。

[吉阪隆正] それでいいのだ !!!

[青] タレントばりの有名建築家も、才気煥発の建築家も、いなくなって十年もすれば誰も知らない、なんてこともザラにあるからな。黒川紀章さんだって、いまの若い連中は知らないんじゃないの。

[黒川紀章] 俺の名前を知らない奴なんているはずない !!!

[青] 残念ながら。今の学生に黒川紀章って言っても、かなり知りませんよー。

[黒川] ただ不勉強なだけなんじゃないの !!!

[赤] このあいだ学生と雑談してたんだけど、黒川さんの話をしようとしたら、困ったような顔して、聞いたことあるかも、建築家ですよね、って聞いてきた。ちょっと驚いたけど。建築学科の学生ですよー。

[黒川]『ホモ・モーベンス』とか『行動建築論』くらいは読んでるだろう。

[青] いやー、どうでしょう。図書館にはギリギリあるかもしれないけど。

[赤] でも、あの頃は勢いがありましたねー。テレビにも頻繁に出てタレント並みの露出でしたからね。

[黒川] そうそう、顔を売ることが営業にもなるしね。スタッフにメシも食わせなきゃならないからたいへんだったんだよ。

[青] 裏側の事情、お察しします。

[黒川] 人生の最後には都知事選に出たり、設計した六本木の国立新美術館で派手な展覧会をやったんだけどなー。紋付袴着て日本刀持って、かなりのサービス精神でコスプレまでやったんだけどな。

[青] あれはやりすぎです。赤鬼丸出しは共感を呼びません。

[赤] まあ、黒川さんが相手にしていた世の中なんて、そんなもんなんですよ。人の心は当てにならない。

[青] 時間は残酷だね。それでも人の心に残っていく建物はあるからね。

[赤] できるだけたくさんの人に愛される、ってとこが残るための最低限の資格かな。それも時代を越えて愛される、ってとこが大切。

[青] 建物の耐久性ってよく言うけど、愛の耐久性、ってのもあるよね。

[赤] 男女関係みたいなもんかな。

[青] そんな比較は不謹慎。もっとデカい話をしているんだから。

[赤] いやいやこれもデカい話だよ。人類全体の話なんだから。

[青] まあ、建築論なんだから今回はそこんとこは深入りしないようにしておこう。

[赤] そこいくと、丹下さんは強いねー。広島のピースセンターも代々木の体育館も、いま見ても感じるものがあるからね。やっぱり、代々木の体育館かな。外観も優美で美しいし、なんといっても内部空間が素晴らしい !!!

[青] 残る建物が絶対にいい、って頑なに言うつもりはないけどね。最大限効率よく使って、短期間で使命を終えるような建物だってあるよね。

[赤] それはそれで認める。コンビニの構造なんて実は合理性の極地だからね。あの軽量鉄骨で構成されている構造体って、あれはあれですごい。

[青] でも、建築っていう営みの一番優れた取り柄は、やっぱり時代を越える、ってところにあるんじゃないかな。だって、そう信じなきゃ今の若い世代に何にも言えなくなっちゃうだろ。建築っていう価値には時代を越える力がある、ってさ。

[赤] ホントにそうだね。

[青] フェルナンドの建物が残っていくかどうかは、これからしだいだね。

[フェルナンド] 絶対に残る !!! いまマドリッドではリバイバルになってるみたいなんだから。

[赤] わかりませんよー。一時のことかもしれない。世の中なんて当てにならないんだから。

メタボリックなムダ話

[青] もう一人の建築の師匠、菊竹さんの建物は、ずいぶん取り壊されたな。出雲大社庁の舎、都城市民会館、いくつかあるね。エコひいきじゃなくて、どれもいい建物だったんだけどなー。

都城市民会館(イラスト:宮沢洋)

[赤] あの頃の菊竹さんの作品は、天才としか思えないようなものなんだけどね。    

[青] できた時代が60年代の高度経済成長の時代だから、作るときにかなりムリしているんだよ。それが不運だねー。

[赤] 実物は無くなっちゃったけど、歴史には残るんじゃないかな。今あれが建ったとしても、たぶん大きな話題になるような建物だからね。何か普遍的にこちらに訴えかけるだけの強い表現力を持っていたと思う。

[青] 60年代の勢いのある頃のスタッフもすごかったね。12人くらいだったはずだけど、内井昭蔵、武者英二、仙田満、土井鷹雄、伊東豊雄、富永譲、長谷川逸子、遠藤勝勧、これだけのスタッフがいたなんて、信じられないような事務所だったんだね。たぶん、赤丸出しだったんだよ。

[赤] 残念ながら、オレたちが在籍したのは十年後、この中で残っていたのは遠藤さんだけ。たぶんあの当時の空気や熱気は、だいぶ遠のいていたんだと思うな。だいぶ青っぽかったかな。

[青] しょうがないんだよ。赤の狂気や暴走は、そう長くは続かない。オマエ、持久力ないからな。

[赤] しぶとくやるのがオマエのしたたかなところだからなー。こっちが弱ってくるととたんに元気になっくるんだよね。

[青] まあな。

[赤] 『か・かた・かたち』や『代謝建築論』、学生の時に線を引きながら読んだもんだね。納得できるし書かれていることもわかるんだけど、正し過ぎてどうしていいかわかんない、っていう不思議な本だった。

[青] きっと菊竹さんの頭が緻密過ぎたんだね。

[赤] 吉阪さんの本にもそういうところがあるね。「乾燥なめくじ」なんてよくわからない虫を登場させて、そいつに人間を語らせる。

2022年に東京都現代美術館で開催された吉阪隆正展の会場案内図のために宮沢洋が模写した「乾燥なめくじ」(オリジナルは吉阪隆正画)

[青] ボケっとしてると人類滅びるって話。

[赤] あの荒唐無稽さに比べたら、オレたちなんて可愛いもんだよ。

[青] 菊竹さんは建築についてだけど、吉阪さんは人や生き方について。書かれていることが正しすぎると、読む方は出口が見つけられない、っていうところがあるんだよなー。

[吉阪] 文章ってのはそういうもんだ。 他者との大切なコミュニケーション手段なんだから、間違ったことは書けない。自分の中の容易には変わらない考えを書くべきなんだよ。多少退屈でも正しいことは正しいのだ !!!

吉阪隆正氏(写真提供:アルキテクト事務局)

[青・赤] そうなんですけどー、、、、。読む方は、、、、、。

[吉阪] うるさい !!! それでいいのだ !!!

[青] こまったな。

[吉阪] そうそう、おおいにこまる、それもいいじゃないか。そもそもキミを少しこまらせるために菊竹事務所に強制的に送り込んだんだから。

[赤] やっぱりそうでしたか。師匠には勝てない。

[青] 脇道に逸れかけてる。話を戻さなきゃ。

[赤] たとえば『か・かた・かたち』の三段階の設計の組み立て方。あれはとても面白いんだけど、いざやってみるとどうにもならない。菊竹さん自身がそういうプロセスで組み立てていたかどうかもよくわからない。

[青] 身近に接して思ったんだけど、あれは菊竹さん自身が自分をコントロールする方法論だったんじゃないかな。

[赤] 菊竹さんは、願望としてあの三段階をやろうとするんだけど、実際はそのように自分をコントロールできていなかったんじゃないか。

[青] 瞬発的に内側から湧き上がってくるエネルギーが大き過ぎて、もともと制御不能だったんだよ。直感、瞬発力、集中力、それを可能にする赤鬼がとんでもなく獰猛だったんじゃないかな。想像だけど。

[赤] 内側から湧いてくる熱情が人並み外れているので、それをどうにかしなくちゃいけない。

[青] それでそれに枠をはめるために編み出した思考方法で、一般向きじゃないね。当人以外の人がやったってうまくいくはずがない。

[赤] 集中した時の菊竹さんの赤鬼の暴走、あれは誰にも止められないすごさがあったからなー。打ち合わせなんて、まさに鬼気迫るものがあった。

[青] 遠藤さんが青鬼役。なだめ役でいたからなんとかなっていたんだよ。

[菊竹清訓] 遠藤さん、お疲れさまでした。

菊竹清訓氏。冒頭のスナップ写真より(提供:内藤廣建築設計事務所)

[赤] あっ、やっぱりー。設計に向き合っている時と普段の人格がまるで違うんですから、最初は戸惑っちゃいましたよ。

[青] 普段は穏やかこの上ない人柄。ニコニコ顔でとても優しい人。下っ端のスタッフにも敬語を使うし。それが設計に向かうと赤鬼丸出し、狂気漂う人格に変わるんだからねー。

[赤] スタッフは戸惑うばかり。たいへんでした。

[菊竹] そう。みなさん、ほんとにご苦労様でした。

[赤] うーーん、やっぱり変わりませんねー。

メタボリックな無駄話の延長戦

[青] やっぱりメタボリズムっていうのを見直しておいた方がいいと思うな。

[赤] 世界的に見てもオリジナリティがあるし、すごいことだったんだと思う。

[青] レム・コールハースが注目したり、メタボリズム・ネクサスなんて見方もされて近年でもリバイバルがあったしね。

[赤] 着眼点が面白かったんだね。モダニズムとは全く異なる視点を建築という価値に見出した功績は大きいと思うな。

[青] 建築の形や都市計画に結びつけやすかったのもよかったな。

[赤] 建築や都市を生態的な営みのひとつと捉えて、その仕組みを持ち込もうとした。

[青] モダニズムが提示した建築や都市が「静的なもの」だとしたら、メタボリズムはそれを「動的なもの」に発展させようとしたんだね。

[赤] それはすごいことだよ。

[青] 1960年、東京で催された「世界デザイン会議」。あれが大きな転換点。建築だけじゃなくてデザインやプロダクトも含めて、あれがその後の全ての始まりだった。戦災復興から経済成長へ、64年の東京オリンピック目指して世の中の機運も高まりつつあった。

[川添登] 四谷の駅近くに喫茶店があって、そこに仕事が終わってから夜な夜な菊竹・黒川と三人で集まって、ワイワイやっていた。世界デザイン会議、どうするんだ、とかね。

[赤] まだデザイン会議みたいな場で、世界に向けて発信するようなものは何もなかったんですよね。

[川添] 見渡せば、戦災の傷跡は深く、木造二階屋の建物ばかり。焼け跡のバラックだってあちこちに残っていたからねー。

[青] まだ海外が遠かった時代、そこに世界からトップアーキテクトとデザイナーが集まってくるんだから、かなりプレッシャーもあったんじゃないですか。

[川添] 建築家だと、すでに大きな存在感を示していたルイス・カーン、次世代を担うと目されていたポール・ルドルフ、ミノル・ヤマサキ。デザイナーだと、ハーバート・バイヤー、ソール・バス。まさに事件、大イベントだった。主催側の委員長は坂倉準三、コアメンバーが丹下健三、前川國男、柳宗理、取り仕切る事務局長は浅田孝、事務局次長に瀬底恒。

[青] あの当時のオールスターキャストですね。

[川添] メタボリズムグルーブは、若手でもなんか言わなきゃ、って感じだった。建築では菊竹、黒川、大髙、槇、ってことになってるけど、積極的だったのは菊竹と黒川。

[青] 目の前には、戦災から立ち直りつつある街があるけど、まだたいしたもんがないんだから、その生まれつつあるエネルギーを語ろうとしたんですね。

[赤] 逆転の発想といえば聞こえがいいけど、苦し紛れに居直ったみたいにも見えますね。

[川添] バカモノ !!! まさにあの時の東京がメタモルフォースする風景に見え
たんだよ。三人で話すうちにメタボリズムって言葉はどうか、ってことになった。その時は言葉だけで中身なんかなかったんだ。

[赤] けっこう安易に決めたんですね。

[川添] そういうもんだって。イメージはなんとなく共有してたから、あとは言葉。内容なんて後から考えればいいんだよ。

[赤] そんなもんなんですねー。おそれいりました。

[青] あのあと時代は60年代の高度経済成長になだれ込んでいくんですよね。その中で、メタボリズムの派生用語みたいな「代謝更新」とか「取替え」とか「増殖」とかいう言葉が雑誌に飛び交うようになった。

[赤] ブルータリズムなんてのも出てきて、やがてその熱が冷めてくると、いよいよポストモダニズムの時代がやってくる。デコンなんてもあったな。

[青] 60年代後半になると、メタボリズムはそうした喧騒にかき消されるように消えていくんだね。

隠れた名作、徳雲寺納骨堂

[青] 菊竹さんと黒川さんと川添さんがメタボリズムの震源地ってことはわかつたけど、やっぱり問われるのは建築家として実現した建物だよね。

[赤] 菊竹さんは、「都城市民会館」、「出雲大社庁の舎」、「島根県立図書館」、「東光園」、あの熱い渦の中で生み出された名作が多いけど。

[青] あんまり注目されないけど、オレは久留米の「徳雲寺納骨堂」が好きだな。

[赤] 他の作品が凄すぎてあんまり目立たないね。忘れられがちだけど名作だよ。できたのが1965年。出雲が1963年、東光園が1964年、都城が1966年、だから、影に隠れちゃってるんだね、小さい建物だし。

徳雲寺納骨堂(イラスト:宮沢洋)

[青] 出雲とはまったく性格も用途も違うけど、構造的な構成の仕方は似ているよね。

[赤] 背骨のような長スパンの主梁があって、それから構成していくやり方。

[青] 遠藤さんの話だと、ぜんぜん違う案で設計はほぼ終わりかけていたらしい。事務所に菊竹さんが朝やってきて、図面に赤を入れ始めたらそれがどんどん広がって、夕方には全く違う形になって、これでいく、ってことになって、数日かけて全員で図面を描き直したみたい。

[赤] 今と違って手描きの図面だからねー。たいへんだったはずだよ。

[菊竹] みなさん、お疲れさまでした。

[青・赤] まったく、もう。

[赤] 設計までメタボリックだよねー。

[青] 発想がすごいし構成もすごい。納骨堂なんだけど、納骨スペースが宙に浮いている。内側の納骨スペースも大スパンの大梁から吊るされているし、外側はキャンティレバーで張り出した庇に吊るされた外壁に仕込まれている。

[赤] 吊るされた外壁のコンクリートの厚さが6cm、これもすごい。

[青] お参りに来る人と納骨スペースが空間的にも構造的にも切り離されていて、隙間からは下の水盤が見える。彼岸と此岸、あの世とこの世、この構成は見事だよ。おそれいりました。

[赤] 構造的な挑戦、空間的な挑戦、そして何より生と死の構成的な挑戦、これらが一体化しているんだね。

[青] 見学はお断りみたいだから悪しからず。用途が用途だけに外からしか見れないのが残念だけど、それは仕方がないね。

やっぱり「乾燥なめくじ」は強い

[赤] 菊竹師匠の建物ばっかり語ってきたけど、忘れちゃいけない吉阪先生の八王子の「大学セミナーハウス」、あの建物も、、、強い !!!

[青] 年に一度は墓参りの代わりに行くことにしているけど、建築なんて、所詮ああいう存在の仕方が本来なんじゃないか、ってその度に思うな。

大学セミナーハウス本館(イラスト:宮沢洋)

[赤] アタマをガツンと叩かれて、出直してこい!!!、って言われている感じがする。これでもけっこう頑張ってるつもりなんだけど、自分でも知らない間に堕落してんのかもしれないねー。

[吉阪] かなり堕落しているぞ !!!

[赤] あっ、「乾燥なめくじ」だ。

[青] なんと新しい職場の多摩美術大学のキャンパスから車で10分ほど、歩いても行ける。去年から学長をやってるけど、時々、先生に見張られているような気がすることがあるなー。

[吉阪] 見てるからな。若者の教育は何より大事なんだから、ちゃんとしないと化けて出るからな。

[赤] えっ、もう出てますけど。

[青] オレたちの本務は建築家なんですけど、教育現場を仕切る役割とのバランスで日々悩んでいます。悩むとあそこに行きます。

[赤] 去年、油画の学生たちを連れて建物見学に行きました。面白かったですよー。みんなすごく素直に楽しんでた。キャッキャ言って、屋根の上を走り回ったりしてた。

[青] センサーの鋭い子たちだから、建物の形や空間、外部の作り方、みんな身体で分かるんだねー。

[赤] 荒々しくて、たくましくて、どんなに使い倒しても、建物本来のオリジナリティは揺らがない。やっぱり強い。

[青] あの建物を見ると、いつも反省しきり。ずいぶん作ってきたけど、自分の設計する建物は、ディテールが繊細すぎるんじゃないか、って最近特に思うようになった。

[赤] オマエが出過ぎるからだよ。もっと大雑把なディテールで、物としての存在感を中心にした強いディテール、そういう建物が作りたいなー。

[青] そこを目指したいねー。オレも自制しなきゃ。

[赤] あの建物では、青鬼も赤鬼もおおらかでギスギスしてないだよな。笑ってる感じがする。先生の事務所のU研がそういう雰囲気だったんだね。青鬼と赤鬼がいつも酒呑んで宴会やってるみたいな感じだった。

[青] 保存修復された「ヴィラ・クゥクゥ」、あれも強いねー。小さな建物だけど、存在感がハンパじゃない。

[吉阪] 女優の鈴木京香が持ち主になったのは嬉しい !!!

[青] 先生、相変わらず美人には弱いですね。

[赤] 二つの厚い壁に挟まれた空間。その壁に厚さを感じさせないさまざまなアイデアが盛り込まれている。

[青] コンクリートの造形の強さかな。あの強さって、時代を経てもパワーが落ちないんだよね。

[赤] きっと、それが建築が持っている根源的な力なんだよ。青的なものは消えていって、赤的なものだけが残っていく。

[青] しょうがないね。これも役割分担だからな。

[赤] ヴィラ・クゥクゥは、どこもすべて原寸かそれに近いスケールでスタディされているんだけど、それがギスギスしてなくて、おおらかで楽しくて愛嬌がある。

[青] そうだねー。原寸のディテールの中にも、性能を考える青的なものと形や面白さを考える赤的なものが仲良く同居しているってことかな。

[赤] 先生の師匠のコルのロンシャンみたいなのを、この小さな住宅にてんこ盛りで盛り込んだんだけど、結局は人間というやっかいな存在の肯定、人間讃歌なんだね。

[青] つまり、青鬼と赤鬼の肯定、それがいまだに力を持っているってのは、希望を感じるな。人間、まだまだ捨てたもんじゃない、まだまだやれるはず、っていうメッセージだな。

バブルは終わらない

[赤] 80年代のバブル経済の時の建物なんて、あれほど派手派手だったのに、どこにいっちゃったんだろう、って感じだよね。

[青] メチャクチャ目立ったり人目をひくものがたくさんできたんだけどね。

[赤] 友人の高﨑正治の表参道の「結晶のいろ」っていう建物。残念ながらもう壊されちゃったけど、やるんだったらあのくらいやらなきゃ、って思ったね。

[青] 荒川修作の「養老天命反転地」。あれも狂気の沙汰だね。まだ残ってるらしいけど、あそこまで外れると不思議な納得感がある。

[荒川修作] 30年遅れてようやく時代が追いついてきたか、まだまだだけどな。おまえら、わっかるかなー。

[青・赤] わっかんねーだろーなー。

[荒川] 馬鹿者 !!!!

[青・赤] 失礼しました。

[赤] あの頃はポストモダニズムが全盛で、おそらくほとんどの建築家がかぶれてたんじゃないかな。今じゃ信じられないと思うけど。

[青] あれが時代ってもんかな。その底にはその時代の社会的な「無意識」があった。それはまだ続いているよ。深層化して、タチが悪くなって、したたかになって、もっと見えにくくなってる。

[赤] 建築にまとわりつく偽善だな。

[青] ポストモダニズムの時代は、面白がっていただけ。その分、罪が軽い。むじゃきさがあったからね。

[赤] あの頃は本当のことは薄々わかっていたけど、ギャグで笑い飛ばすしかなかった。そういう純粋さはあった。

[青] でも今は違う。それすらみんな忘れてしまった。「無意識」だね。

[赤] 平たく言うと、それは山本七平が言った「空気」のことかな。

※山本七平(1921年12月18日 – 1991年12月10日)は、日本の評論家。山本書店店主。評論家として、主に太平洋戦争後の保守系マスメディアで活動した。

[青] だとしたら、BUNGA NETで「水」を差さなきゃ。

[マジで建築論]、ひとまずここまで。

内藤 廣(ないとう・ひろし):1950年横浜市生まれ。建築家。1974年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。同大学院理工学研究科にて吉阪隆正に師事。修士課程修了後、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所を経て1981年、内藤廣建築設計事務所設立。2001年、東京大学大学院工学系研究科社会基盤学助教授、2002~11年、同大学教授、2007~09年、グッドデザイン賞審査委員長、2010~11年、東京大学副学長。2011年、東京大学名誉教授。2023年~多摩美術大学学長。

日曜コラム洋々亭63:「SPIRAL」など10件を加え「300選」目前! 変わりつつあるドコモモ(DOCOMOMO)へのエールと要望

 DOCOMOMO Japanは6月21日、2023年度の選定建築物を公表した。日本建築学会と協力して10件の新規選定と1件の追加選定を行い、「290選」となった。新規選定は以下の10件だ(選定番号/名称/竣工年/用途/設計者/施工者/都道府県)

新規選定10件のうちの4件。左上:日本製鉄八幡製鉄所ロール旋削工場(1941年)、右上:名護市庁舎(1981年)、左下:SPIRAL(1985年)、右下:東京工業大学百年記念館(1987年)(写真:4点ともDOCOMOMO Japan)
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内藤廣設計「鳴門市新庁舎」が完成、増田友也設計「旧庁舎」との対比は間もなく見納め

 この記事は“三色丼”のような記事となる。それぞれの素材を単独でたっぷり味わうこともできるが、3つを少しずつ一緒に食すことで、全体としての記憶を脳に刻みたい──。そんな記事だ。3つとは、①2024年5月に業務を開始した内藤廣氏設計「鳴門市新庁舎」について、②新庁舎で開催中の「建築家・内藤廣 鳴門市新庁舎開庁記念展示」について、③これから解体予定の増田友也「鳴門市旧庁舎」について、だ。

左上から反時計回りに、鳴門市新庁舎、内藤廣展会場、鳴門市旧庁舎(写真:右上のみ磯達雄、他は宮沢洋)
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堀部安嗣氏“初の公共建築”、さぬき市「時の納屋」の絶景を一足先に堪能

 香川県さぬき市が同市の国立公園「大串自然公園」内に建設していた「時の納屋」が6月30日(日)にオープンする。設計を担当したのは、2016年に「竹林寺納骨堂」で日本建築学会賞(作品)を受賞した堀部安嗣氏。「時の納屋」は、意外にも堀部氏にとって“初の公共建築”だという。

6月30日(日)13時にオープンする「時の納屋」(写真:宮沢洋)
長井美暁が編集を担当した『堀部安嗣作品集Ⅱ』(平凡社、2024年2月刊)。2015年発刊の堀部安嗣氏の作品集の第2弾にあたる
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