リレー連載「海外4都・建築見どころ案内」:英ロンドン×PAN-PROJECTSその1、街のストーリーを引き継ぎ存在感

英ロンドン、ブラジル・リオデジャネイロ、米ニューヨーク、スペイン・バルセロナ——。建築に関わる人ならば、一度は訪れてみたい都市だ。新旧の注目建築が町中にあふれている。この連載では現地に在住、もしくは現地と行き来している4組の建築家に、それぞれの視点で、4都市の見どころプロジェクトをピックアップしてリポートしてもらう。4組のリレーで4つの都市を1年かけて巡る格好だ。トップバッターは、ロンドンに拠点を置くパートナー事務所のPAN-PROJECTSにお願いした。(ここまでBUNGA NET編集部)

石造建築を彷彿とさせる存在感——Amin Taha + Groupworkによる「15 CLEARKENWELL CLOSE」

 2019年11月初旬、デンマーク・コペンハーゲンから英国・ロンドンに到着した最初の夜だった。

 建築家の友人から「今晩パーティーがある」と誘いを受け、空港から直接スーツケースを引きずり向かった先に現れたのが、Amin Taha (アミン・タハ)+ Groupwork(グループワーク)によって設計されたプロジェクト「15 CLEARKENWELL CLOSE(15クラーケンウェルクローズ)」だった。7階建てのこの建物は、各階に1~2戸のフラット、地下と地上にはAmin Taha + Groupwork のスタジオを配置し、最上階は建築家の自邸となっている。

 石切り場からそのまま運び出された石塊が、そのまま積み木のように重なり合い組み上がったようなその建物は、ダイナミックなスケールとラフさが古代的な石造建築を彷彿とさせる。しかし全く新しく、ロンドンの街に不思議な存在感を放っていた。

様々なテクスチャーを持つ石塊の外骨格(写真:PAN-PROJECTS)
(さらに…)

「あきらめない」が生む仰天ディテール、永山祐子氏が大阪・関西万博で取り組む2つのパビリオンの詳細を聞いた!

 飛ぶ鳥を落とす勢いの建築家──。今そんなフレーズで頭に浮かぶ建築家の1人が永山祐子氏だ。知り合いなので、この記事では永山さんと呼ぶ。

 建築シーンの最前線にいながら、子育てもしていて、一体いつ寝てるんだろう(それなのにいつも元気そう)と思う永山さんから私(宮沢)に、こんなメッセージが届いた。

 「この建築、アップサイクルであるようでないと思うんです。その辺、ぜひじっくり話したいです」

3月8日の会見で「ウーマンズ パビリオン」について説明する永山氏。カルティエ ジャパン、2025年日本国際博覧会協会、内閣府、経済産業省の共催によるプレスカンファレンスにて(オンライン配信された会見のキャプチャー画像)

 超多忙なはずなのに、私がさらっと書いた記事を見過ごせず、時間をとって説明したいというのが永山さんらしい。永山さんが見過ごせなったのは、この記事↓だ。

日曜コラム洋々亭46:永山祐子氏が大阪・関西万博「ウーマンズ パビリオン」で挑む「アップサイクル建築」の可能性(2023年3月12日公開)

2025年日本国際博覧会 の「ウーマンズ パビリオン in collaboration with Cartier」 © Cartier

 ざっくり要約すると、永山さんが2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)に向けて設計している「ウーマンズ パビリオン in collaboration with Cartier」は、2020年ドバイ国際博覧会日本館のファサードを再構築する点で「リユース」だと永山さんは説明しているが、建築全体で見ればアップサイクルであり、「アップサイクル建築」と呼んだ方が建築の新たな方向性を示していて面白いのではないか──という話だ。

 自分としては、なかなかいい着眼点だと思ったのだが、会見(オンライン)と資料だけで書いたので誤読があったか? 永山さんに時間をとってもらい、話を聞いてきた。

リユース先を自ら探す

 まず面白かったのが、今回の「リユース」(詳細は後で説明するが、本記事ではリユースと呼ぶ)が、誰かのお膳立てで生まれた流れではなく、永山さん自身が関係者にその必要性を説いて回り、実現にこぎつけたものだということ。以下は、永山さん本人の説明。

 「ドバイ万博日本館のファサードを設計している段階で、別の場所でリユースすることは想定していました。部材の接合部をボールジョイントにしたのは、現地の施工レベルでも精度を保つためと、閉幕後に部材を再利用しやすくするための2つの理由からです」

2020年ドバイ国際博覧会日本館の外観(写真:2020年ドバイ国際博覧会日本館)

 「とはいえ、パビリオンが出来上がるまでは、イメージを実現することに精一杯で、リユースのことはしばらく忘れていました。完成間近になって、『そろそろ閉幕後のことを考えないと廃棄されてしまう!』と急にあせりだしました(笑)」

 それからの奔走ぶりは生々しくて活字にはしづらいが、紆余曲折の末、解体を大林組、輸送保管を山九の協力、そして館の共同出展者であるカルティエ ジャパンという良き理解者を得て、リユースを前提としたパビリオンの実現にこぎつけた。つまり、もし永山さんがリユース先探しを自分で始めていなければ、このパビリオン自体がなかったか、あるいは全く違うものになっていたのである。「あきらめなければ、かなうこともあるんだなと、改めて気づきました」と永山さん。いえいえ、普通の人には真似できないパワーに脱帽です。

パーゴラを支える柱・梁はない

 脱帽するのは、設計のこだわりもだ。ドバイ万博の日本館、私は誤解していた。前述の記事で私はこう書いた(太字部)。

 ドバイ日本館のファサードは、日本の「麻の葉文様」を立体格子で表現したものだ。ひらひらと空を舞う白い折り紙のようなファサードは、建物の構造体でもある。

 文章として間違ってはいない。「ファサードは、建物の構造体でもある」という部分を私は軽く見ていた。「ファサードとして自立する壁」だと思っていたのである。本体の外側に、ファサードが寄りかからずに立っている、という意味で「建物の構造体」と言っているのかな、と。

 そうではなかった。下の写真を見てほしい。

2020年ドバイ国際博覧会日本館の内観(写真:2020年ドバイ国際博覧会日本館)

 ファサードと同じ立体格子が上部にも架かっている。私もこういう写真を雑誌で見ていたのだが、このパーゴラ(ガラスははまっておらず、屋根ではない)は、鉄骨の柱・梁で支持しているのだと思っていた。

 永山さんは、「違いますよ。ファサードの立体格子で支えています」と。

2020年ドバイ国際博覧会日本館の内観(写真:2020年ドバイ国際博覧会日本館)

 そうか、永山さんが「アップサイクルであるようでない」と言ったのはそういうことか。

 下の図を見てほしい。ドバイ万博日本館と大阪・関西万博のウーマンズパビリオンの施設構成の比較だ。いずれも色の付いた部分が立体格子(組子)。ファサード部分だけでなく、ピンク色のパーゴラ部分も再利用する。奥にある屋内展示部分は新たに建てるわけだが、色付き部分に新たな柱・梁を立てることはない。

ドバイ万博日本館の組子ダイアグラム ©永⼭祐⼦建築設計
ウーマンズパビリオンの組子ダイアグラム ©永⼭祐⼦建築設計

 びっくりするのは、この立体格子が同じパーツの繰り返しではないこと。

 「コストの理由から、立体格子の鋼材の厚みが場所によっていろいろ違っているんです。組み直しても、新たに部材を加えることなく構造が成立するように、構造設計担当のアラップとともに部材の配置を検討しているところです」と永山さん。ひえー、それは大変な作業。AIにやってもらいたい。

ドバイ万博日本館のファサード解体作業の様子©Takamitsu Miyagawa
ドバイ万博日本館のファサード解体作業の様子©Takamitsu Miyagawa
解体後の検品の様子©Takamitsu Miyagawa

確かに「リユース建築」と呼ぶべき

 前回の記事でも書いたが、リユースとアップサイクルはそれぞれ以下のように説明される。

リユース:一度使われた製品にアレンジを加えることなく、そのまま繰り返し使うこと。
アップサイクル:本来は捨てられるはずの製品に新たな価値を与えて再生すること。「創造的再利用」とも呼ばれる。

 確かにこの立体格子の仕組みを「アップサイクル」と呼ぶのはどうかと思った。自分が設計者だったら「リユース」と説明するだろう。「アップサイクル建築」がこれから重要だという考えは変わらないが、このパビリオンは「リユース建築の新機軸」と位置付けたい。

2025年日本国際博覧会 の「ウーマンズ パビリオン in collaboration with Cartier」©永⼭祐⼦建築設計

 「そろそろ次のリユース先を考えなければと、そわそわして来ました(笑)。次は恒久施設でもいいかなと思っています」と永山さん。この人なら、本当に次の着地点を見つけるかもしれない。

大阪・関西万博ではパナソニックグループのパビリオンも

 大阪・関西万博で永山さんが担当するもう1つのパビリオン「ノモの国」(パナソニックグループ)もディテールがすごいので、簡単に紹介しておく。こちらは、ファサードの構造部材が「循環」をイメージした「8の字」形だ。このカーブは型で曲げるのではないという。「パイプを差し入れるとコンピューター制御された特殊な口金によって3次元的に曲げられるベンディングマシーンが見つかった」と永山さん。それは見てみたい……。

パナソニックグループのパビリオン「ノモの国」の外観イメージ(資料:パナソニックホールディングス株式会社)
パナソニックグループのパビリオン「ノモの国」の外観イメージ(資料:パナソニックホールディングス株式会社)
「ノモの国」のファサードのモックアップ(写真提供:永山祐子建築設計)
「ノモの国」のファサードのモックアップ。1つのパーツは1.4mの大きさ。最終的にこれが縦に20段積まれ、全体では約1400個で構成される(写真提供:永山祐子建築設計)

 2025大阪・関西万博で永山さんが「世界の注目建築家」の1人になることは間違いなさそうだ。(宮沢)

永山祐子:1975年東京生まれ。1998年昭和女子大学生活美学科卒業。1998−2002年 青木淳建築計画事務所勤務。2002年永山祐子建築設計設立。2020年〜武蔵野美術大学客員教授。現在、東急歌舞伎町タワー(2023)、2025年大阪・関西万博パナソニックグループパビリオン「ノモの国」、東京駅前常盤橋プロジェクト「TOKYO TORCH」などの計画が進行中(写真提供: 永山祐子建築設計 )

倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」01:私たちの後ろにまとわりついた「『近代後』的な現象」を読み解く

建築史家である倉方俊輔・大阪公立大学教授の連載をスタートする。編集部からのリクエストは、「学生も読める、欲を言えば一般の人でも読める歴史解説」。それに対して倉方教授が提案してくれたテーマは、バブル前後世代もどっぷりはまれる「ポストモダニズム」! どうぞどっぷりおはまりください。(ここまでBUNGA NET編集部)

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)

 この連載では、日本の建築における「ポストモダニズム」を、きっちり解説していきたい。それは今の私たちの後ろにまとわりついているのに、これまで誰もまともに論じてこなかったからである。

 そんなものは建築ではない、ナシだ、いや一周まわってアリだ、と十把一絡げには扱いたくない。建築を個別に取り上げて、その魅力をあれこれ言うのは大事だが、それにしたって共通する基盤が説明されていなければ、伝わる内容も少なくなるだろう。

 それは一枚岩でなければ、個別の作品を辿っていくうちに雲散霧消する概念でもない。つまるところ、モダニズムを始めとする他のすべてのスタイルがそうであるように「点」ではないのだ。一つの点のような理念として捉えられるわけでもなければ、ただただ作品という点が散乱するわけでもなく、さまざまな言説や作品が関わり合った固有の歴史が存在している。

 だからこそ、今回から計24回の連載を通じて、日本の建築のポストモダニズムを歴史的に把握していきたい。年代の順に述べることを基本として。

 初めに課題になるのは、何を対象とし、どんな期間を扱うかということだ。

「ポストモダニズム」という言葉を分解してみる

 まずは「ポストモダニズム」という言葉を、改めて見てみたい。この単語は「post-」(〜後)と「modern」(近代)と「-ism」とが組み合わさってできている。

 一つ気を付けたいのは、最後の「-ism」が、必ずしも「〜主義」という強い意味を持つわけではない点である。例えば、19世後半に欧米で流行した「ジャポニズム」を「日本主義」と解釈する人はいないはずだ。

 実際、「-ism」は「〜的な現象」といった程度の接尾辞としても使われる。critic(批評家)に「-ism」を付加させると、批評家的な現象、すなわちcriticism(批評)となるように。

 英語の「-ism」には意味の幅がある。それが日本の建築の世界に入り、少々混乱をもたらしている様子を知るために、次の例文をお読みいただきたい。

(a) 丹下健三のモダニズム建築は保存されるべきである。
(b) 当地は百花繚乱の様式が花開いた阪神間モダニズムの住宅地だ。

 2つの文章で「モダニズム」の意味が異なることが分かるだろう。(a)は規範性という言葉が当てはまるのに対し、(b)は、規範性から逸脱した「新しさ」に重点を置く。それはどういうことか。

 (a)の「モダニズム」は、歴史的な意匠に依存せず、在来の計画を疑う意識的な思考だ。これに基づいた建築は日本では1930年頃に勃興し、第二次世界大戦後に建築界の主流となった。

 それとは違って、(b)の「モダニズム」は、市民社会の成立と工業技術の革新を背景に、不変不動の基準が薄れ、「新しさ」を求める個人の趣味と時代の流行が社会を左右していく近代の現象を指している。とりわけ、その始まりの時期が、文学や美術の世界で語られることが多い。日本では1910年代に起こり、1930年頃にひとまずのピークを迎えた。

 2つの意味に重複もあるのだが、(a)は意識的で主体的であるのに対して、(b)は必ずしもそうではないといった違いも指摘できる。

 よって、(a)を主導する者の意識の上では、軽薄な(b)の「モダニズム」は乗り越えられるべきもので、いわゆる「帝冠様式」を含めて昭和戦前期にピークに達したそれは、敗戦によって精算され、正しい(a)が世界的な勝利を得たという発展史観になるのだが、現実にはそうは問屋が卸さないことは、戦前から一貫して(b)の「モダニズム」に根ざした村野藤吾が敗戦後にも活躍し、その人気は没後ますます高まっている事実からもうかがえる。

 つまり、二つの「モダニズム」のどちらかが誤っているわけではない。modernismの意味の中には、意識的・主体的な「近代主義」だけでなく、必ずしもそうではない「近代的な現象」も含まれていることの反映である。そして、原語は同じであるから、意味する内容は完全な二者択一にはならず、双方の色彩を帯びることになる。

 ここまで「modernism」について述べてきたことは、それに「post-」(〜後)が加わった「ポストモダニズム」にも当てはまるだろう。「ポストモダニズム」は「『近代後』主義」といったような強い主張を表す場合もある。しかし、それだけでなく、あれやこれやの「『近代後』的な現象」も指し示す。この場合には、何かに対立するような概念ではないので、「ポストモダニズム」が近代的なものを含んで構わないことになる。

 以上を整理して、この連載が対象とする「ポストモダニズム」が何かを述べたい。まず、「ポストモダン」の意味は、あくまでも「近代後」であり、それは「反近代」や「脱近代」と同じではなかった。そして、「-ism」は「〜主義」だけでなく、「〜的な現象」でも使われていた。したがって、「ポストモダニズム」は、反近代や脱近代を掲げた意識的・主体的な主義主張ではなく、むしろ「『近代後』的な現象」を広く指すのにふさわしい単語ということになる。実際、この用語が生き生きと用いられていた当時は、そのような使い方が少なくなかった。

 「ポストモダン建築」という言葉もあるが、「ポストモダン」は「近代後の」という形容詞であり、時代区分の性格をまとう。建築史家である私が行いたいのは、「ポストモダン(近代後)」という観念を自己定義して出来事を説明することではなく、出来事から観念を抽出する作業なのだ。よって、この連載では、現象を指すのにふさわしい「ポストモダニズム」という単語を用いることにしたい。

連載の起点は1977年とする、その理由は…

 続いては、どんな期間を扱うかということである。論じる対象が現象だとしたら、時代の設定は任意となる。「ポストモダニズム」という言葉が使われていた時期に限定する必要はないわけだ。その上で、この連載の起点を1977年に置きたい。

 1つ目の理由は、1976年の翌年であることだ。「1976」とは何か? それは安藤忠雄の「住吉の長屋」、伊東豊雄の「中野本町の家」、坂本一成の「代田の町家」が竣工した年である。前年には石山修武の「幻庵」、長谷川逸子の「緑ヶ丘の家」、石井和紘と難波和彦による「54の窓」が完成していた。同世代感の高いこれらの建築家が、1970年前後からの格闘を経て、その後に続く作風を勢揃いさせたのが1976年なのである。

石井和紘+難波和彦 「54の窓」1975年(写真:倉方俊輔)

 前年の1年間を通じて、磯崎新が圧倒的なパフォーマンスを見せたことも特筆すべきだろう。1975年1月には『新建築』と『建築文化』の両誌に「群馬県立近代美術館」を載せ、同年の4月に「富士見カントリークラブハウス」、7月に「北九州市立美術館」と大規模な実作を誌面で発表した。この年の4月に『建築の解体』(美術出版社)を刊行し、12月の「新建築住宅設計競技1975入選発表」では上位入賞にすべて外国人を選んで、審査評を「日本の建築教育の惨状を想う」と題した。新たな覇権の出現が、当時はまだ地位を確立したとは言えない世代を鼓舞したことは、想像に難くない。

磯崎新「北九州市立美術館」1974年(写真:倉方俊輔)

 すでに次世代に広い影響を与えていた建築家たちが当時、決定打を放ったのである。原広司が「均質空間論」を『思想』8〜9月号に発表したのが、1975年だった。1976年には篠原一男が「上原通りの住宅」を完成させ、1970年前後に始めた鉄筋コンクリートによる住宅の展開をさらに前衛化した。

 1976年とは今、私たちが語っている「現代建築史」のお膳立てが整った年なのだ。ではなぜ、その翌年から連載を開始するのか? 端的に言えば、1976年は始まりではなく、終わりの年だからだ。何の終わりか? それは1960年半ばからの格闘のひとまずの帰結である。

安藤忠雄「住吉の長屋」1976年(写真:倉方俊輔)

 「1976」という出来事を理解するには、1960年代後半からの日本の建築史を追う必要がある。追っていくうちに、その後の約半世紀で凝り固まり、何となく常識化されてしまった「現代建築史」も書き換えが迫られるだろう。そのためには1冊分の紙幅が必要となり、それはやがて世に出る予定だが、ひとまずは上述したような、終結点であり出発点のイメージを1976年に対して持っていただければ、この連載を読み進める上で問題はない。

 1977年は、そんな「完成」からの新たなスタートだ。1976年にあった可能性が開かれ、展開していく。それぞれの建築家における「反近代」や「脱近代」への格闘は、すでに建築における足がかりを得たから、「近代後」こそが問題になり始める。そんな年を論述の起点にしたい。

 理由の2つ目は、これに反して、外在的に聞こえるかもしれない。それは、1977年がチャールズ・ジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』が出版された年だというものである。日本でも翌年に竹山実の翻訳によって『a+u』1978年10月臨時増刊として刊行された。そこから建築における「ポストモダニズム」という日本語が現れ、使用される頻度は1981年頃に一気に高まる。

 この連載で扱いたいのは、やはり現象なのである。具体的な作品が「近代後」であるかそうでないかを分別するのではなく。となると、「ポストモダニズム」なるものがある(かもしれない)と意識されていた時代というのは、一つの基準になるだろう。

 チャールズ・ジェンクスが本を書いたから、突如、日本で「ポストモダニズム」が巻き起こったのではない。それは当初、支配的な概念でもなく、欧米でそうであったように「フォルマリズム」や「コンテクスチュアリズム」などと併置されていた。そして、いずれの観念も、日本における建築の力学を変えることはなく、1976年以前からの建築への探求が続けられたのである。

 ただ、「ポストモダニズム」が議論されていた期間が存在することは確かだ。それは各人の探求に影響を与え、今から思えば共通に意見交換する基盤を提供し、社会と建築界とのコミュニケーション手段にもなっていた。「ポストモダニズム」という言葉が使われていたという事実が、ひとつの時代のまとまりを作り出していると考えられないだろうか。

 すると、終期については「1995」という象徴的な数字が浮かんでくる。阪神淡路大震災が発生し、オウムサリン事件が起こった年である。この年にタレントから東京都知事に当選した青島幸男が、基幹施設に伊東豊雄・石井和紘・山本理顕・栗生明が関わっていた世界都市博覧会を開催10か月前に中止した出来事も、以後の国内状況の予告としてこれに加えても良いかもしれない。

 この連載の起点を1977年に置き、今さっき追加したように1995年を終点とする理由の3つ目としては、この時期が最も語られていないという現状がある。1995年の出来事が建築の何かをただちに変えたわけではないが、この頃を目安として、別のモードが支配的になったことは事実だ。

 1991年頃からのもやもやとした空気に着火した1995年の社会的な出来事は、それ以前のモードを「ポストモダニズム」と総称して、押し流すのに十分なインパクトを持っていた。その意味で「1976」と「1995」は、建築界における覇権の転換を象徴する数字ではある。ただし、モダニズムが何かで始まり、何かで終わったわけではないように、ポストモダニズムも『ポストモダニズムの建築言語』で突如として開始され、1995年の社会的な出来事によって終焉したわけではない。

 1977〜1995年に日本の建築における現象の一つのまとまりがある。それはそれ以前とも、それ以後とも関わる、おおむね内発的な変容である。この時期を、1976年以前によっても、1995年以降によっても塗り固めないこと、ましてやモダニズムという唯一の正統からの逸脱として排除しないことは、今の私たちを閉塞感から救うと信じている。

〈自立した意味を持つ表面〉の出現

 では、1977年に何が起こったのか? 「表層」の出現である。それは「表皮」や「被覆」と呼び替えても良いかもしれない。いずれにしても善悪の判断はなく、〈自立した意味を持つ表面〉といった意味で用いている。

 ここでは「表層」という語を、伊東豊雄の「PMTビル」が『SD』1978年6月号に掲載された際の多木浩二による批評文「表層化としての建築」と作者の解説文から採った。二つの論考に見られるように、この時期には「表層」という語の必ずしも否定的ではない使用例が現れる。「表層」を知的流行語とした文芸・映画評論家の蓮實重彦による『表層批評宣言』の刊行はそれより後の1979年11月で、その姿勢が通じ合っている。どちらがどちらの真似をしたわけでもないのに。

 1977年に始まる「表層期」の意味を、連載の次回から考えていきたい。

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、住宅遺産トラスト関西、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。連載のまとめページはこちら

越境連載「イラスト名建築ぶらり旅」18:生還した“無名の名建築”のきらめき──秋田市文化創造館

 今回は、筆者のたっての希望で秋田市・千秋公園内にある「秋田市文化創造館」を訪れた。「解体されて駐車場になるところだったんです」と、同館を運営するNPO法人アーツセンターあきた事務局長の三富(みとみ)章恵さんは言う。今の活気ある使われ方を見ると、そんな言葉は信じられない。

(イラスト:宮沢洋)

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「建築にワクワクを」─山下PMCを10倍に育てた川原秀仁氏が“建築マネジメントの伝道師”に転身

 以前、「建築の愛し方」で取り上げた川原秀仁氏が新しい道へと踏み出した。見出しを見て、「誰?」と思った人も多いだろう。川原氏は山下PMCの前会長だ。面白過ぎるトーク力と深い建築愛は既出のインタビュー↓をご覧いただきたい。

建築の愛し方10:「J-WAVE」の建築面白解説者は“元DJ”の山下PMC社長、放送は残る2回!──川原秀仁氏

(写真:宮沢洋)
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「村野藤吾と長谷川堯」展@京都工芸繊維大資料館は、無料でもらえる図録がお宝過ぎる!

 こんなタイトルを見たら、それが京都であっても行かないわけにはいかないではないか。「村野藤吾と長谷川堯―その交友と対話の軌跡」。京都工芸繊維大学美術工芸資料館で3月22日から始まった展覧会だ。

右奥の写真が長谷川堯氏。手前は本展の図録
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連載小説『ARTIFITECTS:模造建築家回顧録』第1話「シャルル=エドゥアールβの窓」──作:津久井五月

気鋭のSF作家、津久井五月氏の読み切り連載小説をスタートする。依頼時のリクエストは「実在する建築家が登場すること」。そのお題に対し、思いもよらぬ作品が届いた。第1話に登場するのはル・コルビュジエだ。(ここまでBUNGA NET編集部)

第1話「シャルル=エドゥアールβの窓」

    計画名:居住用人工衛星「DW-93-f」建設計画
    竣工日:2062年3月21日
    記録日:2094年5月2日
    記録者:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレβ26

 これが私の初仕事だった。懐かしく、苦い記憶だ。
 仕事は大なり小なり人間を形成するものだという。私のようなアーティフィテクト(模造建築家)は仕事のために生み出されたのだから、尚更だろう。このプロジェクトは間違いなく、私を作り上げた。

 依頼を受けたとき、私は生後2カ月だった。私は自分が人工知能の一種であると理解していた。自分が「ル・コルビュジエ」の名で知られた20世紀の建築家、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレの模造品であることを知っていた。自分の中にその男に関する全記録が眠っているのを、たしかに感じていた。
 その上で、困惑していた。私はル・コルビュジエであると同時にル・コルビュジエではなかった。自分自身とその男の関係を、どんな特殊な等号で結べばいいのか、まだ分かっていなかった。

「わたしが一人で住むための、宇宙ステーションを設計してほしい」
 依頼は手紙で届いた。私を生み出したパリの建築思想研究所によるチェックを経て、私が住む湖畔の家のポストに投函されたのだ。湖に臨む中庭のベンチで、そっけないその文面を読んだ。手紙も、ベンチも、湖も、私が暮らす白い小さな家も、私自身の目も体躯も、何一つ物理的なものではなかった。私は生後2カ月間を、その仮想空間で一人、湖面を眺めて過ごしていたのだ。だからその依頼は、私にとって最初の外部世界との接触だった。
 手紙が淡々と語る設計条件は、以下のようなものだった。
 大柄の大人が一人、快適に定住できる小型宇宙ステーション。居住空間の目安は270㎥で、つまり直径8mの球の体積にほぼ等しい。加えて、医療機器などを積み込むスペースを100㎥確保する。設備運転や食糧生産に必要なエネルギーは太陽光発電で賄うが、再生しきれない資源の補給と軌道維持のために、1年に1度は物資補給船とランデブーする。
 予定高度は440kmなので、軌道周期は約93分23秒。軌道傾斜角は97度。つまりこの宇宙ステーションは北極と南極の上空を一日に15~16回ずつ通過し、その過程ですべての大陸と海を真下に眺めることになる。地球観測衛星がよく採用する軌道だが、高度としては第4世代国際宇宙ステーションに近い。
 頭の中で構造体を立ち上げ、軌道をシミュレートするのに、大した苦労はなかった。既存の宇宙ステーションを参考にした一般的な設計案なら、すぐにでも作りはじめられそうだった。しかし手紙の末尾に書かれたクライアントの“強い要望”が、私にそれをさせなかった。
「特に、以下の3点を心がけてもらいたい。第一に、依頼者の名は公表してはならない。第二に、人間を設計に関与させず、君ひとりで完遂すること。第三に、君はわたしに、建築家ル・コルビュジエの思考の真髄を示すこと」
 第一の要望に則って、以降もクライアントの名は匿名とする。
 第二の要望は言われるまでもなく、当時の私には協力できる人間は一人もいなかった。
 第三の要望については、今でもまだ、応えられたのかどうか自信がない。

    *

 手紙を受け取った2日後、私は地球を見に行った。
 白い砂紋のような雲と、のっぺりとした群青の海と、乾燥した苔のような陸地が、眼下でゆっくりと動いていた。まばたきをすると、都市活動や海水温やCO2排出を示す何層ものヒートマップが視界を覆い尽くした。
 生まれて初めて見る本物の地球の姿は、想像以上のものではなかった。本物といっても、私には肉眼がないので、高度850kmを秒速8kmで周回する地球観測衛星の目を借りたのだった。移ろいゆく地球の表面は、生誕以来眺めてきた仮想の湖面とどこか似ていた。それは私の思考を引き出し投影する鏡だった。

(画:冨永祥子)
(さらに…)

速報:「東急歌舞伎町タワー」内覧会、モアレのようなガラス外装は間近で見るとこうなっていた!

 東急と東急レクリエーションが新宿歌舞伎町で開発を進めていた「東急歌舞伎町タワー」が4月14日(金)に開業する。4月6日に行われた(正確には本日夕方まで行われている)報道内覧会に行ってきた。この話題は、あらゆるメディアが報じると思うので、小メディアの強みを生かし「速さ」と「切り口」で勝負したい。

日が差し込むと、影がきれい!(写真:特記以外は宮沢洋)

 筆者がずっと気になっていたのは、日本の超高層ビルでは見たことのない、ほわっとしたガラスの外装。これが近くで見るとどうなっているのか、ということだ。モアレみたいに見える↓が、ピントが合っていないわけではない。

 

連載「よくみる、小さな風景」01:小さな風景から定着の作法をさぐる──乾久美子+Inui Architects

建築家の乾久美子氏は2014年、当時教べんを執っていた東京芸術大学の学生らと「小さな風景からの学び」という展覧会を開催した(@TOTOギャラリー・間)。最近になって、乾事務所のウェブサイトに「小さな風景」という名のコラムが再開されていることを知り、「ぜひBUNGA NETにも掲載を」と打診。乾氏と事務所スタッフが輪番で執筆する形での連載が実現した。初回(プロローグ)は乾氏が担当。イラストも乾画伯!!(ここまでBUNGA NET編集部)

(イラスト:乾久美子)
(さらに…)

山梨知彦連載「建築の誕生」01:単純/複雑──建物が建築へと昇華する瞬間、その分岐点

磯崎新氏が20世紀後半の日本建築界を代表する書き手だとしたら、21世紀の今を象徴する書き手は山梨知彦氏(日建設計チーフデザインオフィサー、常務執行役員)ではないか──。そう考えて連載を打診したところ(山梨氏にはそうは言っていない)、山梨氏から提案のあった連載タイトルは「建築の誕生」。かつて磯崎氏が唱えた「建築の解体」の先に、山梨氏はどんな「誕生」の瞬間を見るのか。(ここまでBUNGA NET編集部)

(ビジュアル制作:山梨知彦)

建築の誕生

 何故、「建築の誕生」なのか?                

 建築デザインに関わっている人々は、「建築」という言葉に特別な意味を感じて使っている。たとえば、様々な与件を整理して一つにまとめただけでは「建物」にしかすぎず、そこにルールや、意味や、思想、あるいは美観など、全体を貫き律する何ものかが立ち現われて初めて「建築」になる、といった感じだ。英語にしてみると、少しわかり易くなるかもしれない。ただの建物は「building」で、さらにそこに何かが加わり、あるいは削ぎ落とされて、建築すなわち「architecture」になるという感覚だ。Architectureという言葉を、「建築物を指し示すもの」であると同時に、「あるものが人間によってつくられるにあたり全体に行き渡った構成原理とでもいったもの」をも指し示す特別な言葉だと捉えているのだと思う。

 だがいざ、どうすれば建物を建築へと変異することが出来るのかと問われても、簡単には答えられない。いやむしろ、多くの建築家はこの問いへの答えを求めて、建築の生みの苦しみに身を投じているのかもしれない。サラリーマン・アーキテクトという気楽な立場からではあるが、僕自身も「建築」について実務を通して考えてきた。だが残念ながら、未だ答えには到達できていない。だがその答えに近づく一つの手掛かりとなるのは、設計をしているときや名建築に接したときに感じる、建物が建築へと昇華する瞬間や手掛かり、すなわち「建築の誕生」ではなかろうかと考えている。(図1)

図1:桐朋学園大学音楽学部調布キャンパス1号館の3つのレイヤと柱の関係を示すBIM(提供・日建設計)

本能としての建築

 多くの建築家は、建物としての成功と建築の誕生の両立を目指す。だがその実現は難しい。ある試みは、建物としては資本主義の世の中において商業的成功を納めるかもしれないが、建築としては意味をなさない場合もあろう。またあるものは、建築として時代を画する意味を生み出すかもしれないが、建物としては失敗するものもあるだろう。そして多くのものはそのどちらになることもなく、つくられては消えていく。            

 建築を生み出すことには、かくも膨大な徒労を必要とする。それにも関わらず、僕らは強いモチベーションを持って建築に挑む。何故であろうか。僕自身は、建築を生み出そうとするモチベーションこそが、人類が今日まで淘汰を経て進化を遂げることを支えてきた重要な本能の一つだからではなかろうかと捉えている。随分、建築に肩入れをした考え方ではあるのだが。(笑) 

 だが今、人新世と呼ばれる時代感が提示された。これは、建築づくりをはじめとした人類の行動が、超然とした存在と思われてきた地球に非常に大きな影響を与え、人類の危機をもたらしつつある、という時代認識であると僕は捉えている。そして、この時代認識からダイレクトにつながる社会課題の一つが例えば「脱炭素化」であり、今や建物や集落や都市づくりにおける大きな課題と位置付けられるに至った。

 話はいささか大げさになってしまったが「何故この『建築の誕生』という連載を始めるのか」という冒頭の問いに戻ると、つまり以上に述べたような思いから、「建築」とは何かという問いに対する答えに近づくため、この連載の機会を借りて「建築の誕生」について考えてみたいと思ったからである。

単純/複雑

 連載初回は、「単純/複雑」だ。建築がこの世の中に据えられるものである以上、世の中は建築の大前提であり、最初の与件でもあり、「建築の誕生」への最大の手掛かりであることは疑うまでもない。世の中をどう捉えるかについては、千差万別のアプローチがあるだろう。僕は、いかなる建築が誕生するかの最初の大きな分岐点は、世の中を単純なものと捉えるか、それとも複雑なものと捉えるかにあるのではないかと考えている。

 世の中のトレンドは、「かつてシンプルだった社会は、今や複雑な方向に進みつつある」との捉え方ではなかろうか。その一例としては、最近よく見かけるVUCAという言葉が上げられるかもしれない。この言葉はもともと、米軍が冷戦下の緊張の高まりの中での軍事作戦立案にあたり、不確実(Volatility)、不安定(Uncertainty)、複雑(Complexity)、曖昧(Ambiguity)が高まっている状況を捉えるためにつくった用語であったが、やがて社会状況が複雑になっているとの認識を表す言葉として一般社会に広がったという。世の中は複雑になり、それへの対応が社会課題とされる時代になって来たと認識されるようになった。

 このような認識の影響を受けてか、このところ、大学に建築設計課題や建築雑誌においても、「揺らぎ」や「ランダム」といった不均質さをモチーフとしたデザインを沢山見かけるようになってきた。(実は、僕は複雑とランダムは似て非なるものだと考えている。複雑/ランダムの話もまた、建築の誕生に関わる重要なキーワードだ。この連載の中で、別途取り上げたいと思っている)。              

複雑な世の中を、単純に捉える

 ところで、そもそも世の中は、単純だったものが最近になって複雑になって来たのであろうか。僕自身は「世の中は、もともと複雑なものであった」と考えている。近代から現代にかけて発明されてきた電信、電話そしてコンピューターなどにより、取り扱い得る情報量が桁違いに増えたために、人間はそもそも複雑である世の中を複雑に捉えることが出来るようになったのではなかろうか。以前から世の中は複雑であったが、それを複雑なままに捉え、取り扱う術を持ち合わせなかったため、単純化して捉える手法が重んじられてきたのだろう。そう考えるにはやや根拠が弱いが、この問題に賢人たちがいかなる考えを持っていたかと古今東西の格言を参照してみると、賢人たちも古来より自らが生きる世の中を複雑なものとみなしてきたように見える。いくつかを拾い上げてみよう。

・賢者は複雑なことをシンプルに考える。 ソクラテス 

・現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。 湯川秀樹

・複雑なものというのは、大抵うまくいかない。 ピータードラッカー    

・複雑な事象を単純化できる人を天才という。カール・フォン・クラウゼヴィッツ

 …等々、大半の賢人たちはかねてから、社会や世の中は複雑なものであるが、一方でそれを複雑に捉えるのではなく如何に単純に捉えるかが重要だと言っている。そもそも、格言は「我々が取り扱う対象は複雑なので、如何にそれらを単純に捉え、単純な解決策に結び付けるか」を目指して書かれているものだ。格言が存在するというそのことが、我々がこの世の中は複雑であると考えていて、その複雑さを直接ハンドリングする術がない時には単純化して取り扱うべきであるということを示しているのかもしれない。

 ここでの本題である「建築」の領域でも、ローマ時代のウィトルウィウスの時代から現代に至るまで、世の中やデザインの与件は複雑であり、それゆえに複雑な与件をそぎ落として、シンプルに解決を図ることこそがデザインの王道だと位置付けられてきた。その至言ともいえるのが、誰もが知るミースの「Less is more」だろう。この「複雑な世の中を、単純に捉える」中に「建築の誕生」を求める方法は、今後も重要な位置を占めていくに違いない。                       

 それに対して、新しい「建築の誕生」を模索したくなるのも人間の性である。たとえば、レイトモダンの建築家やポストモダンの建築家たちは、現実社会が抱える問題や、そこから派生する建築が取り組まなければならない諸条件などは本来「複雑」なのだから、その複雑さを単純化することなく捉え、建築はデザインされるべきであると考え始めた。複雑に対する思想的裏付けは既にあったものの、残念ながら、それをハンドリングする適切なツールが無かったためか、時代を変える大きなうねりとはならなかったようだ。

複雑な世の中を、複雑なままに捉える

 その長年続いてきた「複雑な世の中を単純に捉える」状況が、「複雑系」の科学の登場と、そこでの複雑さをハンドリングし同時に複雑系の科学を成立させるための原動力ともなったコンピューターの普及により、社会は「複雑な世の中を、複雑なままに捉える」方向へと今大きく動き出していると僕は考えている。

 複雑系の科学とは、複雑な世の中とそこで起こる現象を捉えるにあたり、複雑な事象を複雑なまま受け止めることに真正面から向き合う科学体系だ。かつての科学は「完全に規則的か、完全にランダムであるか」を大前提としていたことに対して、複雑系の科学とは、「完全に規則的でもなく完全にランダムでもない、その中間を扱うもの」と言えそうだ。この複雑系の科学の登場と、それを受け入れつつある社会状況の変化が後ろ盾となってか、近年は建築デザインを含む世の中の多くの領域でも「複雑な世の中を複雑なままに捉える」モチベーションや試みが目立っている。

 日本建築学会の会報誌である「建築雑誌」でも、2009年の5月に「非線形・複雑系の科学とこれからの建築・都市」と題された特集が組まれ、建築家の中にも「複雑な世の中を複雑なままに捉える」ことを前提に「建築の誕生」を模索する流れが現れて来たことを伝えている。昨今の複雑な三次曲面を使った外装デザインも、複数のシミュレーションを相互に連動させ最適化を図る多目的最適化による建築デザインも、そこから建築のかたちを直接ひねり出そうとするジェネラティブデザインやフォームファインディングと呼ばれるものも、大きくは「複雑な世の中を、複雑なままに捉える」トレンドの中に位置づけられるだろう。ここに新しい「建築の誕生」の手掛かりが潜んでいるのではないだろうか。

僕らの試み

 こんなことを考えつつ、僕自身も細々とではあるが、実プロジェクトの中で、「複雑な世の中を複雑なままに捉える」ことから建築を生み出すことを、日建設計の仲間たちと共に試みて来た。         

 たとえば、2000年代に設計した「神保町シアタービル」(図2)や「ホキ美術館」(図3)や「NBF大崎ビル」などは、建物の形態を制限する複数の与件と容積や環境性能を同時に満たすかたちを、人力とコンピューター(主に複数のシミュレーションとBIM)を使って追求することで「複雑な与件を複雑なままに捉える」ことから建築を生み出そうとしたものだった。

図2:神保町シアタービル (撮影:雁光舎/野田東徳)
図3:ホキ美術館(撮影:雁光舎/野田東徳)

レイヤとパターン

 「複雑な与件を複雑なままに捉える」ために、与件を複数のシミュレーションに分解し、その複数のシミュレーションを串刺しするかのように同時に満たす「かたち」や「ルール」や「パターン」を見つけていくというここで取った方法は、これまでの「複雑な社会を単純に捉える」方法で生み出されたものとは異なった「建築」をひねり出そうと試みたものであった。

 実はこの方法は、僕ら建築デザインに従事するものが日々使っているデジタルツールであるCADやBIMやPhotoshopなどのシステムと極めて類似している。共通点は「レイヤ」、そのon/off、重ね合わせにより、雑多な設計与件を整理しつつ、設計者が求めるかたちや画像を、複数のレイヤの中に多次元的にまたがり存在する「パターン」として浮かび上がらせることで、複雑な設計与件を複雑なままにコントロールしながら作業をする環境という点である。

桐朋学園大学音楽学部調布キャンバス1号館

 この複数レイヤの中に多次元的に浮かび上がる「パターン」を意識して設計したのが「桐朋学園大学音楽学部調布キャンパス1号館」という音楽大学の校舎であった。                  

 音楽大学の設計では、個人やパートが使うレッスン室、合奏をするアンサンブル室、練習を待つ学生が集う学生ホールが主要機能だが、そこに教育カリキュラムが重ね合わされ「複雑」な設計与件となるのが一般的だ。これまで音楽大学の設計では、複雑な与件を数パターンの「平均値」的な部屋に収束させ「単純」に捉え、解決を図る設計が主流であった。その結果、薄暗い中廊下を挟んで同一形状の部屋が繰り返し並ぶ味気ない建物、あえて言えば監獄のような内部空間を生んでしまうことが度々あった。

 そこで僕らがとった方法は、

・各室は平均値ではなく、それぞれの部屋の用途に即した個別の大きさ/プロポーション/天井高さ/響きを持たせることを徹底する

・各階をレイヤに見立て、それぞれに各室をカリキュラムに即して合理的に配置する

・各室の間には廊下や吹き抜けを挟み込み、牢獄感を強める元凶となっている厚いコンクリート壁無しで遮音が取れる形式とする

・レイヤを重ねただけでは構造的整合は取れないが、異なるレイヤの壁が立体的に交差した点に柱を通せば、柱はまっすぐに通るというパターンを発見した

・各室の大きさやプロポーションは固定したまま、間に挟まれた廊下や吹き抜けの幅を変化させ、柱のスパンが適切になるよう調整を繰り返す。

 この、必要な複雑さは複雑なまま各レイヤで捉え、レイヤの積み重ねの中に立体的に構造パターンを見出す方法を思いついたとき、僕は「建築の誕生」に近づけたように感じた。実際に出来上がった空間は、一見ルールが感じられずナチュラルに見えるが、実際には構造合理性などのルールがあり「複雑な与件を複雑なまま捉え」つつも、デザインとして収束した状況を生み出せたのではないかと考えている。(図01、図04、05)

図1(再掲):桐朋学園大学音楽学部調布キャンパス1号館の3つのレイヤと柱の関係を示すBIM(提供・日建設計)
図4:桐朋学園大学音楽学部調布キャンパス1号館。2階レッスン室(撮影:雁光舎/野田東徳)
図5:桐朋学園大学音楽学部調布キャンパス1号館。1階学生ホール(撮影:雁光舎/野田東徳)

「予測」から「操作」へ

 時代は今、更なる加速度を伴い「複雑な世の中を、複雑なままに捉える」方向に進んでいるようだ。

 状況を加速しているものの筆頭は何かといえば、人工知能である。これまた複雑系の科学が非常に大きな役割を果たして、革新的に進化を遂げている。2022年の後半には、ChatGPTやStable Diffusionなどの登場や公開が相次ぎ、人工知能はついに実用の域に到達したと大きな話題となっている。僕は、2023年は、AIとその他のデジタルツールが統合し、建築そのものが変革する「AI-建築統合元年」になるだろうと予想している。     

 建築の世界で言えば、BIM上の情報と建築などに実装された各種センサーが、人工知能をハブに統合、連携される「スマート」な建築を目指す動きが始まるだろう。このAIと統合された「スマート」な建築とこれまでの建築との大きな違いは、現実世界で起きている複雑な現象をリアルタイムにセンシングし、デジタルツインやミラーワールドなどを介してリアルタイムにシミュレーションを行い、建築をリアルタイムで「制御」しえるという点であろう。そしてこれが他のエレメントとも統合され、「スマートシティ」へと繋がる。

 かくして、複雑で予想が難しいことを無理して予想して「設計」しなければならない呪縛から解き放たれ、複雑な世の中の状況をリアルタイムにセンシングしフィードバックすることにより、無理なく「操作」出来る新しい「建築の誕生」が近づいているのかもしれない。

山梨知彦(やまなしともひこ):1960年生まれ。1984年東京藝術大学建築科卒業。1986年東京大学大学院都市工学専攻課程修了、日建設計に入社。現在、チーフデザインオフィサー、常務執行役員。建築設計の実務を通して、環境建築やBIMやデジタルデザインの実践を行っているほか、木材会館などの設計を通じて、「都市建築における木材の復権」を提唱している。日本建築学会賞、グッドデザイン賞、東京建築賞などの審査員も務めている。代表作に「神保町シアタービル」「乃村工藝社」「木材会館」「ホキ美術館」「NBF大崎ビル(ソニーシティ大崎)」「三井住友銀行本店ビル」「ラゾーナ川崎東芝ビル」「桐朋学園大学調布キャンパス1号館」「On the water」「長崎県庁舎」ほか。受賞 「RIBA Award for International Excellence(桐朋学園大学調布キャンパス1号館)「Mipim Asia(木材会館)」、「日本建築大賞(ホキ美術館)」、「日本建築学会作品賞(NBF大崎ビル、桐朋学園大学調布キャンパス1号館)」、「BCS賞(飯田橋ファーストビル、ホキ美術館、木材会館、NBF大崎ビルにて受賞)」ほか。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。連載のまとめページはこちら